汐入公園はソメイヨシノ満開、ヨウコウや寒緋桜はそろそろ終わりだが三種類の桜の競演が見られるのはこの時期。
中国人がバスで見学にくるほどで、なんだか服のセンスが⁉⁉な人たちが走路いっぱいにうろちょろして写真を撮っているのは最近の春の風物詩⁉⁉⁉
公園を出て明治通りを渡り、裏道を進んで合羽橋へ。
買い物をしてザックに⑸㎏ほどの荷物を満載して、エッコラショ‼と背負って浅草へ。
せっかくだから浅草から隅田川へ出て、桜を見ながら帰ることにしたのだ。
観光客でごったがえす浅草寺の裏を通り、浅草神社の前を通り過ぎようとしてその隣に別の鳥居があるのを認め足を止めた。
石の鳥居に彫られた名前は「新門辰五郎」ではないか⁉
裏にまわって見れば安政二年創建⁉ちゅうことは西暦1857年、オヤジが生まれる100年前じゃぁあ~りませんか🙄
何ゆえ新門の親分がここに神社を創建したのか❓
何⁉ひょっとして「新門辰五郎」を知らない御仁がいるとは思えないが、ひと言でいえば江戸末期の火消しの頭領で、「勝海舟」とも懇意で「徳川慶喜」を警護して駿府まで同行したりと活躍した義侠の人。
どんな謂れがあるのだろうと境内を進み由緒書きをみれば、「被官稲荷神社」とある。
その由来は、
「安政元年、新門辰五郎の妻が重病で床に伏したとき、山城(現、京都府南部)の伏見稲荷神社に祈願したところ、その効果あって病気は全快しました。そして、同二年、町の人がお礼の意味も込め、伏見稲荷神社から祭神御分身を当地に勧請しました。その後、小社を創建し、被官稲荷神社と名付けられ、現在浅草神社の末社としてその境内に祀られています。名称の由来は不明ですが、被官とは官を被(こうむ)る、ということから、就職・出世と解せばよいでしょう。被官稲荷神社正面の鳥居は新門辰五郎により奉納されたものです」
とあった。
こじんまりしているが、戦火をまぬがれて時代を伝える歴史的神社ではないか。
ミーハーでごったがえす浅草寺の境内にあって、浅草神社よりひっそりした佇まいで今までまったく気がつかなかった。
ジジイ、まだまだ甘いなぁ・・・。
被官稲荷神社を後にして隅田公園にはいると、これまた花見客で大混雑。
そりゃそうだ、こんなに陽気が良くて桜満開なら人も出るさ。
宴会の人たちを横目で見ながら走りすぎ、ザックの重さにひ~こら喘ぎながら、ふたたび汐入公園の桜をみて戻って来れば13、68㎞。
わーい、これで今月の走行距離120㎞Over👍
4ヶ月ぶりの100㎞超えだ、あーシンド🤣
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