このオヤジが21か2くらいの時だから、今から45、6年前のことになる。
六本木のお好み焼屋で午前3時まで仕事をしたあと、ほぼ毎晩のように通ったのはおでん屋のおいちゃんの屋台。
何度かこのブログでも書いたかもしれないが、おいちゃんの屋台はかつての防衛庁の塀の前に出ていた。
さいしょは店のオーナーに連れて行ってもらいそのうち一人で行くようになったのだが、今考えればよく防衛庁(現防衛省、そして今この場所は東京ミッドタウン)の隣に屋台を出せたものだと思う・・・。
そのおでん屋台に何度も通っているうちに顔も名も知られ、たぶんあの頃おいちゃんの屋台で最年少だった若僧のオヤジは、個性豊かな大人の常連さんたちにお酒を注いだり、グラスや皿を片付けたり下働きみたいなこともして楽しかった、
常連さんの中には芸能人が何人もいて、一番よくお会いしてお話しをしたのは「エド山口」さん(モト冬樹のお兄さん)、純白のスーツを着てその筋の人と見紛ったのは「千昌夫」さんで、はじめはビビったけれどやさしく「飲みな」とお酒を注いでくださり恐縮した。
おいちゃんの人柄だろうか、名前は忘れてしまったけれどある女優さんは来るたびに手作りのおかずをタッパに入れて持ってきてくれたり、NHKの大河ドラマ「新・平家物語」で源義経を演じられた「志垣太郎」さんも気さくですっかり屋台の人になりきっておでんを入れてくれたりした。
当時は写真週刊誌もSNSなんてものもなかったし、六本木の深夜にわりと素のままの芸能人にふつうにお目にかかれた。
そしてある深夜、賑やかな一陣の風のように屋台に現れたのはギターを抱いた「松崎しげる」さんとハットをかぶった「西田敏行」さん御一行。
もうすでにおいちゃんとも顔見知りなのか、適当におでんをみつくろって日本酒(司牡丹)を酌み交わし、突然まわりの客も巻き込んで即興の弾き語りショーが始まった。
そりゃもう陽気で、みんな手拍子でノリノリ、通行人は足を止め見回りの防衛庁職員も足を止め成り行きを見守る。
まだ「池中玄太80キロ」も「もしもピアノが弾けたなら」も「愛のメモリー」も世に出ていない時のこと。
歌の合間に「西田敏行」さんが屋台の客に話しかけ、そこででた話題で「松崎しげる」さんに目配せしてまた一曲歌が始まると行った具合で、その絶妙な掛け合いの圧倒的なエンターテナーに唖然としていると、「西田敏行」さんがあの満面の笑みで「飲みなよ」と酒を注いでくれたのだ。
そりゃあもう何十年経ったって忘れられない思い出だ。
だから、突然の訃報に言葉を失った。
訃報を伝えるいくつものニュースの中の一つに、子供の頃からの夢だった役者になって「ひとつ虹をつかんだ」と話しておられるインタビュー映像があった。
それを聞いて映画「虹をつかむ男」を思い出した。
ニュースでは「釣りバカ日誌」ばかりが取り上げられていたけれど、西田さんのお父さんは映画が大好きだったという話しもあり、やはりこのオヤジは「虹をつかむ男」の方が気になってしまった。
映画は1996年12月公開で、元々は「男はつらいよ」の第49作「男はつらいよ 寅次郎花へんろ」が予定されていたけれど、その年に「渥美清」さんが死去したことで制作が中止になり、「寅さん=渥美清」を追悼して予定していた第49作のキャストがほぼそのまま移行して「虹をつかむ男」ができたというのだ。
映画のエピローグでCG合成ではあるけれど「寅さん」が登場するし、「男はつらいよ」の主題歌も流れるし、「敬愛する渥美清に、この映画を捧げる」というメッセージも出るがエンドロールには「渥美清」のクレジットはない。
満面の泣き笑いの「西田敏行」さんとともに涙がスーッと流れる映画だった。
笑顔の素敵な人の死は、辛い。
「西田敏行」さん、ありがとうございました。