「村上春樹」の「走ることについて語るときに 僕の語ること」を、しばらく前に読んだ。
はじめての「村上春樹」だったが、この「走る小説家」が物語を紡ぐために真摯に走っている姿に心を打たれた。
走らない人は度々彼に嘲笑的にこう言う。
「そこまでして長生きをしたいかね」
と。
またある時は、小説を書くのが不健康な作業、不健全な反社会的要素を内包したものだと認め、それゆえ実生活そのもののレベルから退廃的になり、反社会的な衣装をまとう人々が少なからずいることにも理解を示す。
そして往々にして健康を指向する人々は健康のことだけを考え、不健康を指向する人々は不健康のことだけを考えるが、そのような隔たりは人生を真に実りあるものにしないと断じる。
彼のテーゼは、真に不健全なものを扱うためには、人はできるだけ健康でなくてはならないということで、つまり不健全な魂もまた、健全な肉体を必要としているということだ。
(故 「山城新伍」の名言、狂気を演じられるのは理性だけ と同じ意味だろう)
「村上春樹」は、命を削るようにして作品を生み出していく作家が、肉体の衰えとともに「文学やつれ」していくのを
避けたいと思い、自然な前向きの活力を維持しながら、長く厳しい格闘の末に長編小説を書きあげたいという。
その精神的・肉体的鍛錬がランニングなのだろう。
そして小説家としての本分を妨げないように、春・秋・冬はマラソン、夏はトライアスロンと、アクティブに世界中を飛び回る。
「村上春樹」のランニングの本質とは、与えられた個々人の限界の中で、少しでも有効に自分を燃焼させていくことで、それはまた生きることのメタファーでもあるという。
けっして、長生きしたいがための方便ではないのだ。
遅まきながら「村上春樹」という小説家を見直し、彼の小説を読んでみたいと思った。
そこでふと、思い出した。
店の着替えをいれる棚の中に、たしか「村上春樹」が1冊あるはずだと。
あった😄
オヤジ世代には「さらば愛しき女よ」と訳された「清水俊二」さんのハヤカワ文庫版でお馴染みだが、さてこのハードボイルドの名作を「村上春樹」がどう訳すのか?
探偵「フィリップ・マーロー」がどんなセリフを吐くのか、「大鹿マロイ」とどんなやり取りをするのかと興味深々で、「村上春樹」をろくろく認識せずにしばらく前に買っておいたのだ。
だけど、タイトルからして違うんだもの。
「さよなら、愛しい人」ときたかぁ。
しかし、タイトルは大御所「清水俊二」さんに軍杯をあげよう。
(ちなみに、清水俊二さんは今でこそ映画字幕の第一人者の戸田奈津子の師匠だ。数多くの外国映画や海外小説を翻訳されている)
やっぱりハードボイルド的には
「さらば愛しき女よ」じゃなきゃ
しかし読みはじめて目から鱗、断然読みやすいぞ。
ハリウッドブルーバードを疾駆し、時には拳銃を抜き、殴られても信念を曲げないタフガイ「フィリップ・マーロー」が生き生きと活写され、1940年代のロサンゼルスの街が蘇った。
シニカルでウイットに富んだセリフ、目の前にいるかのような人物描写、どっぷりハードボイルド小説にハマった頃を思い出す。
かつて「清水俊二」訳を読んだ読者も再読することをおすすめするし、「レイモンド・チャンドラー」の入門書としても秀抜、男なら、いや女も「フィリップ・マーロー」に惚れるだろう。
惚れたら今度は、「清水俊二」訳の「さらば愛しき女よ」を読むのもいいのだろう。
すでに「村上春樹」訳の「フィリップ・マーロー」ものは4冊も出ているらしい、最高傑作との呼び声も高い「清水俊二」訳の「長いお別れ」が「ロング・グッドバイ」
として出ているので、次はそれを読まねばならない。
そして全部の「フィリップ・マーロー」ものを読みなおした後に、やっと「村上春樹」自身の小説を読むかもね。
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