旧・鎮西村の地域と歴史

福岡県飯塚市に昭和38年の市町村合併によって無くなった、旧・鎮西村がありました。
昔話や伝説が沢山あります。

浦嶋神社縁起書

2013年06月08日 22時48分27秒 | 御伽噺
「浦嶋神社縁起書」


浦嶋子雄略天皇の御世二十二年(西暦478年)七月七日に美女に誘われて常世の国に行き、その後三百年を経て淳和天皇の天長二年(西暦825年)に帰って来た。

常世の国に住んでいた年数は三百四十七年間で、淳和天皇はこの話を聞いて浦嶋子を筒川大明神と名付け、小野篁を勅使として、勅宣を述べたうえ勅命を承って宮殿を御造営し、ここの筒川大明神に鎮座された

続・竹林の宮愚人
・・浦嶋明神縁起絵巻

浦島太郎伝説


「水江浦嶋子」

当時この物語の主人公は「水江浦嶋子」つまり、「水江の浦」に住む「しまこ」という人物だったようです。「丹後国風土記」は彼の住所を丹後国与謝郡日置里筒川村、「日本書紀」は丹波国余社郡管川、と記しています。

「丹後国」は和銅六年(七一三)丹後の五郡を割いたものであり、「日本書紀」はそれ以前の形を留めているだけで同一の地名、現在の伊根町が浦嶋の故郷だったのです。

「亀を助けなかった浦嶋」

亀を助けた話が初めて出てくるのは、近世を過ぎてからのことで、「丹後国風土記」では、次のように記しています。

浦嶋子はひとり小舟に乗って釣りをしていました。

しかし、三日三晩たっても魚は一匹もつれません。あきらめていた矢先のこと、浦嶋子は五色の亀を釣り上げました。

舟の中で居眠りをしている間に、亀は美しい乙女の姿になっていました。

乙女は、目を覚ました浦嶋子を蓬莢の島に誘います。

蓬莢の島に着いた浦嶋子は、乙女が彼を門前に待たせて内に入っている間に七人づれ、八人づれの子供たちに会います。

その子たちが、亀姫の夫だと囁きあっているのを耳にした浦嶋子は、乙女が亀姫(神女)だと知ったのです。

古くは、亀は乙姫の遣いではなく乙姫自身だったのです。

「浦嶋子は常世の国で-神婚物語の結末-」

亀に姿を変え、美しい女性の姿をした神に誘われ、浦嶋は神の国を訪れました。

この訪れた先のことを「万葉集」では「わたつみの神の宮」また「常世」と呼んでいます。

一方「日本書紀」は「蓬莱山」(とこよ)、「丹後国風土記」は「蓬山」(とこよ)と呼び、龍宮城の名前が見られるのは中世のお伽草子以降です。

浦嶋子は神の女性を妻にして、きらびやかな大宮殿で暮らしていましたが、三年が過ぎた頃故郷を思い出します。亀姫は開けることを禁じて自分の玉櫛笥(=玉手箱)を手渡し、見送りました。

櫛を入れる玉櫛笥は霊力を持つもの、己の分身と考えられました。

つまり、浦嶋子は亀姫(おとひめ)の分け御霊を手渡されたのでした。

やがて故郷に戻った浦嶋子は変わり果てた風景に驚き、出会った老女に尋ねてみると「三百年も昔、嶋子という人が海に出たまま帰ってこなかったという言い伝えがある」と告げられ、途方に暮れます。

そして、寂しさがつのり亀姫を想うあまり、玉櫛笥の蓋を開けてしまいます。すると中から白煙がたち昇り、年老いて死んでしまいました。

浦島 太郎の物語はこの様なものです、現実離れしたお話ですが現在に伝わっていることは・・何か想いがあった事だと思います。


筑豊の古代史(石包丁)

2013年06月08日 17時21分41秒 | 天照伝説
○ 笠置山


笠置山と人間の関わりは古く、一帯で産出される小豆色をした輝緑疑灰岩は、弥生時代の遺跡として知られる、飯塚市の立岩遺跡に見られる石包丁製作の原石地として知られ、採集地であったと思われる。

また、垂仁天皇16年に饒速日命(にぎはやひのみこと)が笠置山に降臨されたと伝えられ後に千石・明野(脇野)、磯光と遷る磯光天満宮の故地でもある。

『筑豊を歩く』より抜粋


○ 立岩遺跡の石包丁


遠賀川流域と他地域との交流がかなり広範囲に亘っていたことは弥生前期から中期と見られる石包丁の分布からも窺われます。石包丁は稲作の渡来とほぼ同時期あるいは遅れたとしても稲作の渡来からそれ程遅れない時期に列島に渡ってきたと思われる、かまぼこ型をした薄型の石器です。

直線に近い部分に二つの穴が開いていますが、この穴に紐を通して手の指に握るようにして、丸くなった側で稲の穂を摘み取るように刈入れていたと考えられています。

当時は現在のように根本近くから刈り取るのではなく、実った穂だけを摘み取っていたようです。
 
この石包丁が北部九州の各地から出土しているのですが、初期には加工しやすい頁岩質の砂岩で出来たものが多く出土するのですが、この石は脆いため包丁としての寿命はそれ程長くなかったと思われ、後の時代になると硬い輝緑凝灰岩製の石包丁の割合が増えていきます。

輝緑凝灰岩は比較的広く各地に見られる岩ですが、包丁に加工した遺跡は立岩周辺の他では見つかっていないことから、立岩で加工されて各地に運ばれたものと考えられております。立岩の西北6Kmに位置する笠置山からは加工途中の石包丁の半製品や石屑が見つかっており、ここが石包丁の加工場であったと考えられております。

立岩式石包丁は北部九州のほぼ全域に亘って分布が見られるのですが、立岩以外から見つかった立岩式石包丁の全体を100として各地域に分布している比率を見てみますと、板付・須玖を中心とした福岡平野と朝倉地区が夫々25%強と最も多く、立岩から搬出された石包丁の半数強は峠を一つ隔てた福岡平野や朝倉地域に運ばれたことが分かります。

次いで大分県の宇佐地域が15%と高い割合を占めております。

この三地域だけで四分の三となり、当時の交流の様子を窺うことが出来ると思われます。

一方、同じ筑豊地域でも嘉穂盆地の隣の遠賀川中流に位置する鞍手・直方では5%弱、遠賀川下流では1%程度と、至近の位置にありながら搬出量の割合が少ないことが注目されます。

また、地場製と見られる石包丁と立岩式石包丁との割合を比べて見ますと、立岩式石包丁の各地域における浸透具合が分かります。嘉穂盆地を除いて浸透度合いが高いのは筑後の60%、次いで朝倉が50%弱、福岡平野が35%程度となっております。

この比率も隣の鞍手・直方では35%程度、遠賀川下流では10%程度とそれ程高くないことは注目されます。

この二つの比率を元に、石包丁の相対的な出土数(≒消費量)から見た当時の各地の稲作活動を推定してみますと須玖・岡本を中心とした福岡地区が最大で、朝倉地区が続き、その他の地区は格段に少ない値になりました。

立岩遺跡より抜粋


上記のような資料を読むと、私たちの住んでいる筑豊平野は、古代にあっては素晴らしい文化を持っているように思う。

天孫降臨の主舞台がこの北九州にあるかのごとく『北九州説』が多く論じられるようになって来ている。

古代へのロマンが広がる一因ともなってきている。