天照宮(鞍手郡磯光村)
礒光村にあり。
俗読、天照大神といへども、いにしへ従五位下を授られたるを見れば、天照大神にあらず。
瓊杵速日尊也。瓊杵速日尊を天照大神といひたる事、奮事記にあり。
いつのころよりか、八幡大明神春日大神をも、相殿に祭りたてまつる。
むかしは笠木山の上に鎮座ありしか共、老幼の輩参詣のわづらひあればとて、麓にうつす。
宮田村の枝村千石原と云所の上、谷の中に今も其あとあり。
今其所を佛谷といふ、是は山上に神社ありし時、稲の初穂を麓の谷にかけて祭りしゅゑ、穂懸といひしを、訛て佛谷といふなり。
箕後神勅ありて、鶴の一番住所に、遷座したまふべきとの御告あり。
因て其瑞を見るに、鶴田村に白鶴雌雄二居ける所あり。
終に其所を御廟地と定む、今の神廟の地是他。此社むかしは鶴田村の境内也しが、礒光の田地、鶴田村の近邊にありて遠く、鶴田の圃、礒光の村際にありて遠かりし故、たがひに耕作の便よろしからずとて、近年農民共各相替へて、其の地を耕作せり。
故に天照宮のまします所は、むかしのまゝなれど、今は礒光村の境内となる。鶴田村も、本より天照宮の敷地也。
鶴田といふも、白鶴田の中に栖し故、是に りて村のなとすと云。
大凡此御神は上代より鎮座ましまし、住昔は御宮造もいかめしく、神領多くして、
年中の祭禮其数しげく、祠官も数多ありて、是を勤行ひけるとかや。
按ずるに、三代實録に、陽成天皇元慶元年十二月十五日、筑前國正六位上天照神に、從五位下を授たまふとあり。此御神の事ならし。
徳治三年造營有し棟札あり。
延寳八年庚申に、敷地の人々相共にはかりて、新に神殿を改め作り。禄元六年直方の家臣、小川権左衛門氏信、石鳥居を創立す。
粥田庄の惣社にして、礒光、鶴田、龍徳、宮田、大隈、尾崎、兵段(ひょうたん)、皆天照宮の敷地なり。
先年直方の頒主黒田長清君の命をうけて、篤信縁記を作りて納めける。
(貝原 益軒著 筑前国続風土記 巻之十三より抜粋)
ひもろぎ逍遥・天照神社(1)