第1話 鎮西村宗教の今昔
西の比叡とうたわれた天台宗の一大道場であった鎮西の地は、浄土宗の第二祖鎮西国師の高徳により一層隆昌をみた。
このことは、鎮西村宗教の輝かしい特質としてあげられる。
秀峯龍王の東山麓、鎮西村一帯は、昔仏教伝道の地として栄えたところであった。
老杉青松の丘に丹青の堂塔が甍を並べ、寺々の梵鐘の音は、谷を巡り里に流れ仏心を衆生に伝えたと思われる。
隆昌の原因を地域よりみれば、当時西海の政治文化国防の中心地太宰府とは、龍王山を隔てて近距離にあり、海陸交通の拠点博多港とは、八木山峠により結ばれていた。
そのうえ嘉穂盆地南北の中央、西の境にあり、眼下はるかに平地が開け、東方、北方の交通もいたって便利であった。

仏教伝道のうえから考察すれば、太宰府には、勅願寺観世音寺があり、全国の僧侶と関係が深かった。
したがって、この地とも接触が多かったと考えられる。
以上のことから、ようやく日本化され布教の期にあった仏家たちが、ここを適地として選んだものと、思われる。
昔、明星寺を本寺とした、舎利蔵・大日寺,・蓮台寺・建花寺一帯は天台宗の教地として栄えた。
仁安3年(1168)鎮西上人が七才のとき、今の八幡市香月から大日寺の地に、菩提寺の妙法法師を訪ねて勉学にこられ、以来21才まで、この地で修業を積んだと伝えられる。

鎮西上人が修行した“金剛禅寺”址の写真(昭和38年頃)
明星寺五重の塔建立の勤行など上人がこの地に印した偉大な業績は、ひろく大衆の帰依するところとなって仏教の隆昌は往時をしのいだ。
今に残る飯塚・木屋ノ瀬の地名は、昔日の面影の一端である。
800年前の上人の高徳が今もなお里人の心に伝わり、鎮西村の名称が生れたといわれる。
浄土宗に帰依改宗後の上人のこの地の消息は明らかでない。
さて再度の隆昌をみた仏教の地も栄枯盛衰は世の習いの例にもれず、光妙・安養の二寺はあるが、昔の面影をしのぶものはほとんどない。


静かな山麓の所々にわずかに残る跡を訪ねると、岩にしみ入る虫の音にも感慨無量のものがある。
(鎮西村誌より抜粋)
今に残る飯塚・木屋ノ瀬の地名の由来
○ 県央・飯塚の地名のおこり
五重の塔ができ上ったので近郷の善男善女がお祝いのご飯を持って参り、食べもしたが集たご飯の白い山はいっこうに滅らずついにご飯の塚(飯塚)ができた。
しかし、現在では甍は無く、貝原益軒の筑前国風土記に伝わるのみです。
これが飯塚のおこりでそこを飯の山といっている。
その場所が器運山太養院(飯塚市本町)であったが後今の地にうつた、また京都から持ち帰った菩提樹の杖を立てていたのが芽を出して茂ったが、今北谷と南谷との間にある菩提樹である。
(鎮西村誌より抜粋)
○ 木屋ノ瀬(八幡市小屋ノ瀬)
このように勉強した上人はまだ勉強したいと比叡山にのぼり,仏教の奥義を学んだ。
そして帰郷し明星寺に五重の塔を再建するため全国行脚に出発し、建立の材木も毎日
遠賀川をのぼり・木材運びの人夫が休むたびに木材の山ができたので
木屋ノ瀬(鞍手郡いまは八幡市)の名がついた。
(鎮西村誌より抜粋)
光妙・安養の二寺はある・・
○ 光妙寺(蓮台寺)
蓮台寺字本村にあって天照山という。
本尊阿弥陀如来、本堂横四間、入四間、昔は法泉山と号したといわれ、真宗本派西本願寺末寺である。
寺伝によると、開基慶円は肥後の国の剣工、同田貫の子孫で道狸と号したが、後に仏法に帰依し厚信の余り得度して慶円と改めた。
当地に来て法泉山蓮台寺の再興を志したが、浄土教に刺激されて京都にのぼった。
時に慶安2年(1649)「7月11日、本願寺良如上人にえっして浄土真宗の宗義を修得し光妙寺の寺号をたまわり、本尊と蓮如上人の御影を下付され、かえって現在の地天照山麓に一宇を建立したということである。
たまたま昭和三七年,境内に納骨堂建設の議が起こり墓地改葬のさい、慶円法師の火葬に付した骨壷が発見され、開基当時、340年前の面影をしのび恭しく納骨堂の階上に墓石とともに安置しねんごろに祭られた。
十一世住職円了の代昭和37年(1962)中秋のことである。
○ 安養院(建花寺)
建花寺字荒巻にあり、報土山と号し、本尊阿弥陀如来、本堂横五間、入五間、浄土宗鎮西派本誓寺末寺である。
この寺は、昔、現在大日如来を祭ってある禅定寺の地にあって、仏教が隆昌であつたころの名残りといわれる。
安養院の沿革によると、人皇第四九代、光仁天皇の御宇宝亀2年(771)行基菩薩、この地に錫を留められ、一宇を建立し、自ら三尺三寸の阿彌陀仏の立像彫刻して、安置したのが現本尊である。
その後・建久3年(1192)浄土宗第二相・鎮西国師により、法相宗を浄土宗に改め安養院と改称された。
後天正9年(1581)九月中句・豊後大友義連(大友宗麟)の兵火に焼き尽くされ、元禄二年(一六八九)現在の地に一小宇を再興したということである。
現本堂は前住職二十一世長崎宝誉の建立したるものである。
鎮西村誌より抜粋
まず、鎮西上人の偉業を記録したく仏教編から纏めてまいります。