わだつみの華

あなたの心という大海原を
心地よい風が渡っていきますように

(記事はリンクフリー)

業を浄める

2010-07-25 11:52:49 | 癒し
 業を浄めるという題を出しましたけれども

業というものは非常にやっかいなものでしてね、

本当に次から次から湧いてくる。

 この間も質問があって、五井先生、なくなる時に

業を全部持っていくといって、後カスみたいな

ものだと言ったけど、あれは嘘だったのかというね、

そういう質問がくる位、肉体の人間というものは

業を湧かせますでしょ。


 業といったらちょっと言葉がきついけれども、

こうして欲しいああして欲しい、こうなりたい

ああなりたい、ね、そういうものもやっぱり度が

過ぎると業になっていく。それだけならいいけど、

念になってね、そうして、その想いというものは

いつも申しますように飛びますでしょ、飛んで

色んな所へ行きますよ。


 例えば、皆さん気がつかないけれど、眠ってる間に、

自分の友達が死にそうだとか、何か心配事がある、

離れてる人がいるなんていうと、あなた方の霊体のね、

一番動きやすいところへさあっと飛んで行って、そして、

その人の枕辺に行って慰めたり手を握ったり光を与えたり

して、さあっと帰って来る。

 そういうことは皆やっているんです。ただそれを気が

つかないだけの話でね。浄めてるんですね。

 
 だけど、実際に業というものはやっぱり生きている証

かと思う位湧いてくるね。業というものに把われても、

もう把われたら最後いっぱいになるでしょ。


 生きてる時も死んでからも本当にまあずっと浄め続けて

いますけれどね、ただ、業を浄める時にね、皆さん浄める 

立場の方だから申し上げますけれど、業というものに

対して、やっぱり恐れるとかね。

 例えばですよ、どこかお家を浄めてください。すごい

病人がおります、浄めて下さい。想いがくっついて

来ますよ。だから、○○さんなんて、いつか病気に

なったんじゃなかったかな。出すぎてね、印を

もらっちゃった時にね、あれだって、病気になるという

のはね、こっちから見ていると大変なことだけれども、

あれで、体の中の余分な、○○さんの業なら業というか

なあ、そういうものに対する抵抗力ですよね。それを

つける為に病気にさせて、病気が治ったとたんにというか、

病気をとり去った時に、光がうーんと中へ入って、そして

浄める力というのがうんとアップするように、病気をする

ということはそういう事です。

 病気をするということは、熱を出すということでも何でも、

浄化作用なんですね。だからその時に、ああ病気になって

ありがとうございますと言えたら一番いいんだけれども、

苦しいのが先にくるね。だけども、煎じ詰めて言えば

そういうことですね。


 業を浄める時にね、一番大事なのは恐怖心をなくすことね。

 それから、私がいつも言ってますように、私がやるんじゃ

ないということ、神様がさせて下さる。守護霊さん

守護神さんがついてて下さる。お浄めする相手にもね、

どんな人にでも守護霊守護神というものがついてましょ。

 だから、その人たちから頼まれて私は代理人で

やるんだから。私がやるんじゃなくて、私の後の神霊が

動くんですね。あるいは五井先生が動くんです。あるいは、

五井先生を通しての神様の愛情が動くんですね。

 そこをちゃんと見てますとね、私の体を使って私の祈りを

用いて私の言葉を用いて、実は、そういう大愛というものが

動くから、だから、スウーッと色んなものが上に昇って

いくんですよ。


 この間、ほら、五井先生がどうのこうのというの大変

だったでしょう。あれだってもうちょっとね、君がさ、

きっちり信仰してればといったらあなたを責めることに

なるかもしれないけれども。

 君だって皆そうだけれども私に出来るだろうかというのが

あるから、ある間はやっぱり昇り切らないんだよ。

 印を切る時だって、私がやるんじゃないんです。任せて

しまって、向こうから力がきてエネルギーがきて、

いつの間にか消えるんですよね。そういうもんなんです。


 浄めるということは祈るということといっしょなの。

祈るということは自分をなくすことですと先程言いましたよね。

 なくする練習をすることです。浄めるということはもっと

すごいでしょ。もっと色んな想いとか病気とかいうものをねえ、

浄めて下さいとか、浄めることによって窮地から脱却させて

下さいとか、そういう色んな人の想いを受けますでしょ。

 受けて受け取ったまんま、苦しいまんま印をきったって

しょうがない。仕方がない。それじゃあ駄目なのね。それは、

業というものは消えるんだから。色んな意味でです。

 神様すいませんお願いしますと言ったとたんに神様が

受けとって下さってるんですよ。目には見えなくてもね。

 そこをちゃんと信じて、そこをおもいながら祈って統一して、

印なら印をきらないと。僕みたいなのがやって出来るかなあ

とかね、私みたいなのがやって出来るかしらとかね。

 それがやる間ってのはあれは大変ですよ。上に昇らない。昇り

きらない。もうちょっとなんだよね。又別の課題を出しますから、

その時にはちゃんと今度は切るんだよ。


 結局ね、自分がさせていただいているというのをもう少し

進めていくと、私がするんじゃないになるでしょ。そして、

私がするんじゃないというのをもっと進めていくと、神様の愛が

この業を消して下さるんだでしょ。業というものはなくなって、

光になっていくということになりますね。


 闇というものはないんです。本質的に言えば。本来の世界から

言えばね。だけど、闇と見えるものはいっぱいあるんですよ。

 その闇と見えるものを闇だとおもい間違えてね、とらえ間違えて、

そこへ引っかかっちゃうと、苦しくって苦しくって

しょうがなくなる。

 例えば、痛みがくる、痛みが辛い、もう本当に痛みが辛いと

いう時に、その辛い辛いつらいで辛いにひっかかってるとね、

その痛みそのものがずっと続いていきますよ。

 頭の中から心の中から離れないから、あるいは、体から

離れないように自分でぐっとおもっちゃってるから。

 ところが、痛みの最中でも、誰かから電話がかかってくる

とか、何かしなきゃなんないことがあるとか、何かそういう

ことがあると、何分間かでもその痛みを忘れているということが

ありましょう。

 あら痛みが消えてる、何故か。その時に、そういう仕事を

通して守護の神霊がね、後で、痛みどころじゃない、何か

そういうものがあるんだよということを皆さんに知らせるんですよ。

 皆さんだって、そういう意味で、祈りじゃなくったってちゃんと

統一できるんですよ。そういう体を持っているんです。

 肉体というものは業がとっつきやすいかもしれないけれども、

本来の皆さんの心だって本心だって体だってね、痛みとか業とか

把われとか、そういうものが寄りつきっこない体になってるんです。

 人間の体というものはそういうもんなんですね。本当の

自分自身に返す為にお浄めするんだということですよね。


 五井先生なんかは、もう私もあなたもないし。私はね、本にも

書いたけれど、色んな人が来ますよ。そして、ひどいのになると、

先生、受験を受からして下さいとかね、色々ありますって。

 そういう人の色んな想いをお浄めする時に、何とお浄めするか、

一つしかない。この人の天命が完うされますようにしか

ないんです。それによってそりゃあ運命修正してゆきますよ。

 それによって叶えられることがある。


 斉藤さんだってさ、巡講した時に、斉藤さんの話を聞いただけで

足の痛みが治りました、入院してたのに退院できました、と

でてくる。それで斉藤さんは、何かあの先生が来ると奇跡が来る

とか言われて困ってさ、私にこぼしたことがあるけれども、

そういうことじゃないんです。本当はね。

 それは、ちゃんと喜びを分け与えるんだけれども、そういう

ことじゃなくって、斉藤さんなら斉藤さんが、村田さんなら

村田さんが、高橋君なら高橋君がね、無になって、そうして

神様の言葉をしゃべってる時に、本当に自分というものを忘れて、

神様だけのおもいで一杯になって言葉をしゃべっている時に、

やっぱり、その人はその人なりに皆光になるんですね。

 誰一人として、この人の光が高い、この人の光が低いという

ものはないんですよ。だから、その時斉藤さんの話を聞いて、

村田さんの話を聞いて、ね、病気が治ったとか痛みが少なくなった

とかということになれば、それはその二人を通して、その

一人一人を通して、神様の光がパアーッと行ったんですよ。

 そこまで。そういうことなんです。


 例えば、ここから北海道の誰それの為に祈りといっても、

離れているからなあーとか想いながらお浄めしたら駄目ですよ。

 想いが入っちゃあ駄目なんです。そういう人間の想いが

湧いてくるのは当然だけれども。


 しかし、神様ってものは、どんなことでも出来る。何でも

出来る。癒し方は我々の都合とは違うかもわからないけれども、

決して我々を悪くなさらない方でしょ。

 だから、神様の中に想いを投げ込んでね、そして、お願いします

といって、叩いたり印を切ったりしちゃえば、その光というのは

すごい光がいきますからね。そこを信じることですね。

 色んな業がありますよ。もう間断なく来ますね。だけども、

その業の数よりも量よりも神様の愛の方が、何十倍何百倍何千倍

深いか分からない。そうでなかったら、地球だけでなく宇宙って

ものはとっくの昔に潰れちゃってね、人間なんてものも

とっくの昔に死んでますよ。死滅している。

 それがこうやって生きてられるというのは、神様の愛と

いうものが何者にもまして優っているからです。

 ただ物だけの世界だったら、ただ科学だけの世界だったら、

祈りのない世界だったら、もうとっくの昔に色んな所で戦争が

始まって滅んでますよ。


 我々は滅びのない生命へ向う為に祈りをやっている。その滅びの

ない生命というのは、ただ我々だけが助かろうとか、我々だけの

神様であって欲しいとか、愛念であって欲しいとか、そういう

利己を求めての祈りではないわけです。

 我々の本来心というもの、本心の座というものね、そこへ深く

信頼して、それが皆の生命の中に平等にあるということを思って、

そして、その光のおもいを世界中にまくんだ結ぶんだという

信仰でもって、この祈りをずっと続けていった時に、私達の

この祈りというものは、ただ本当に光になって光明になって

かけ巡るんです。


 だから、私よりもあの人の方が経験があるからとかね、

そんなことは、神様から見たら問題じゃありません。

 あなた方の魂というのはだいたい古いんだからね。皆それ相応に

古いんですよ。誰が特別古いとかいうんじゃなくって

皆古いんです。古い魂をもった人たちが、何十代何百代と

生きてきて、五井昌久に会ったんです。

 だから、あなた方に印をきれとか、何とかという。私に

出来るだろうかという様なことをいう時というのは、あなた方が

やるんじゃないの。あなた方を通して神様が働くんですよ。

 私に出来っこないとかね。そんなこといってたら

いつまでたっても地上の光明化というのは、狭い範囲でしか

出来ていかないんですね。そんなことでは駄目なんです。

 
 世界平和の祈りというのは、人間本来の生命に根ざした

エネルギーというものをね、それぞれの立場の人達の心の中に

植えて、そうして、それを引き出して広がらせる。そういう

ものすごい力を持っている。

 だから、ピースポールが一本しか立たないとか何とか、そんな

小っぽけなこと考えるなということですよ。ピースポールが一本

立つか立たないかというのは、それはその時の時期の問題ね。

 色んなことがからまってるんです。で、その色んなことが

からまる上に、皆の想いとか思惑(わく)とか、そういうものが

邪魔をしちゃあ駄目なんです。何事も神様がいいようにして下さる。

 だから、そこへ向って、想いを明るく切り変えてね、そうして

精進してゆく。するだけのことはしました。後はお任せしますってね、

ということばがありますよ、あれなんですね。


 イエスの十字架だってそうです。釈迦だってそうですよ。大涅槃に

入ってね、後は、あれはお任せしますなんです。任せるということが

ないことには宗教というものは本当には根づいてゆかない。

 我々を導く生命の根元の神様の大愛というものがあるということを

信頼しないことには、我々の信仰というものは深まってゆかないんです。


 何も無理なこととか、あなた方の分相応以上のことを突然

やらせようなんてことは誰も思わない。だけども、あなた方が

これが私の分相応だとか、これ以上私は出来ないとか思ってる

その枠というものを、神様というのは守護の神霊というのは

取っぱらってね、本当の人間というものはそんな小っぽけなもんじゃ

ないよ、あなた方の中にも本当の人間が息づいているんだよと

いうことを知らせよう知らせようとしている。

 
 だから一番いいのは、私は何も出来ないけれど、神様がさせて

下さるんだったら私はやりましょうという、そういう心ですよ。

 そういう心でもって、皆で和顔愛語でやってかないと。神様の

言葉だからといって、しかめっ面でやっていっちゃあ駄目。

 和顔愛語なんです。色んな人がいるんですから。色んな人の

悲しみがあり悩みがあり苦しみがあるでしょう。それをね、

溶かしてゆくのは柔らげていくのは笑顔なんです。

 何をどう難しいことを真理の言葉を言えるか言えないか、

そうじゃない。やっぱり笑顔なんです。

 笑顔というものはね、色んなものをとかしますよ。色んな

立場の人、たとえ宗教の人であっても何であっても、笑顔と

いうものを見た時に、人間というものはやっぱり慰められるね。

 笑顔にはぬくもりがある。笑顔とぬくもりというものでもって

人間は息づいていくんです。ほっとするんです。

 何故かというと、その笑顔とぬくもりの中に神様の愛の源と

いうものはあるんだから。


 だから、難しいことを言おうとかね、これはこう言わなきゃ

いけないとかね。ねばならぬからは何も生まれてこない。

 ねばならぬと思わないで神様に任せてしまえばね、そこから

言葉も出てくる、想いも出てくる、ね。

 真理の言葉だって、自分がこんなことを言おうと思わなくったって、

色んないい深い言葉が出てくる。口をついて出てくる。それは

神様がしゃべらせて下さる。語らして下さる。あるいは、そこへ

おもむかせて下さる訳ですから。


 だから、人間への他力本願ではなくて、本当の意味で神様に

任せて、他力になって、そうしてその他力になった上での自力をね、

自分の努力をね。

 自分の癖は自分がよく知ってましょ。だからその癖をよく

とらえて、自分が息をしやすいように、決して自分に無理がいかない

ようにね、自力と他力を融合させて明るい生命の宗教というものを

作っていかないといけない。それが、私が大神様から命じられた

ことなんだから。


 今、もう人類が、人間がね、分かれて、ああだこうだ、こっちだ

あっちだと言ってる。そういう時代じゃないんです。

 どんな人でも、とに角、結び合って寄り合って生きていける、

そういう世界をつくってゆく。それが神様の本来の願いなんだから、

祈りなんだから、その心で人間が皆ここへ来ているんですからね。

 その為に皆が生きてる訳だから。そこへ目指しての祈りをやって

いかなきゃいけません。ね、だから、私は出来ないというのだけは

やめて、私にさせて下さい、何が来ても、私は出来ないと思うかも

しれないけれども、次の瞬間には、神様、あなたの中に全部

放り込みます、というそういう信仰を養っていただきたいと

思います。