わだつみの華

あなたの心という大海原を
心地よい風が渡っていきますように

(記事はリンクフリー)

ありのままの世界

2012-04-02 09:27:54 | 癒し
 この世の中の過ぎ行きというものを眺めて
おりますと、色々な喜びやら悲しみやら、色んな
ことがあります。なかでも生まれるという事と死ぬ
という事、これは本当に人間の一大事だなあと
いうことが、これは皆様が誰もが感じておられる
ことではないかと思いますが。

 生まれるということに関しては、人間というものは
誰も疑問をさしはさまない訳ですね。誕生する、
人の生命が新たに生まれてくることに対する喜びと
いいますか、それを迎える喜びといいますか、
これはもう等しく皆が同じ想いで新しいものを
迎える訳ですね。ところが、死ぬということですね。
 肉体から離れていくということについては、
これはもう不安で不安で、恐怖で恐怖で。この
世の中のすべての芸術やら宗教やら、人間に
関わってく想いのものというのは、この人間の死
というものに対する一つの明確な答が欲しくって、
それで色々なものが生まれているといっても
差し支えない程ですね。

 仏教にしたって色んな宗派がありますね。
 キリスト教にしてもありますね。釈迦の教えと
いうのは本来一つなんですよね。本来一つというのは、
どっから入っても同じという意味じゃありませんよ。
つまり、釈迦が悟って、菩提樹の下で悟って、そして
37日間ね、これはものすごく自分にとっては
味わいの深いもんだけれども、これを一般の世間の
人達に喋べっちゃったら、これは分からないんじゃ
ないだろうかと悩んで、そしてこれはやっぱり
自分一人だけの悟りの内容にしておこうと
いうのをですよ、梵天というインドの神様が
出てきてね、三度この世の中の世界の人達の為に、
釈迦の悟ったあの内容をどうしたって広めて欲しい、
口から出して欲しい。そうすることによって皆
救われてゆくんだということをいう。

 梵天というのはインドの最高神ですから、その
インドの最高神が、三度釈迦のところへ来て頼んだ
ということは、一つの大きな人間世界へ光明が
降りる転換になってる訳ですね。つまり、福音と
いうものがね、キリスト教的に言えば、一人のもの
ではなくなってゆくと。喜びごとというものが
一人のものではなくなってゆく。

 その喜びごとというのはこの場合何かといえば、
自分の肉体を満足させるだけのもんじゃない。
 気持ちを満足させるもんじゃない。それだけの
もんじゃないんですよ。つまりそれは、自分の魂、
霊体ですよね。奥の体、そういうものを本当に
納得させて喜ばせて、その魂が打ち震える程の喜びを
実感させて、そうして、本当に何でここに我々人間が
生きてるのか、どうして人間というものは年を重ねて
老いてゆくのか、なぜ死ななきゃならないのか、
ということをすべての深淵な教えというものは説いて
いってる訳です。そして、死というものを突き詰めて
考えている訳ですね。私などは、死というものは隣に
移るようなもんだというのは分かっていますけれども、
それでもなかなかね。皆さんの質問を聞いたり
していると、やっぱり死ぬということは大変な
ことです。

 肉体をおいて向こうの世界に移るんであるにしろ、
往相ということがすんなりゆく人ゆかない人ね。
 それは死ぬことだけじゃなくって、生き方にしろ、
デコボコの中を行かなきゃなんない人、あるいは
真っすぐ行って真っすぐ行ききったと思えるところ
からポーンと落ちてしまう人、色んな苦労
といいますか、修行といいますか、そういうことを
させられて、人間というものは、一通りの道じゃ
ない二通り三通りの道をあるいは十通り百通りでも、
その人によって違う色合いの道を皆歩かされて
ゆく訳です。そうして、生きることの大変さという
ものを味わってゆく。だけども、それはただ苦を
引き受ける訳じゃないんだね。ただ悲しいという
ことを引き受ける訳じゃない。

 この世界は業に満ちておりますけれども、業
というものは善業も悪業もある訳です。仏教的に
言えばね。そしてそれは自分の想いによって決まる
訳ですよね。そうするとやっぱり、自分の身から
出てゆくもの、自分が受けるものというものは、
どっちにもなる。染まってゆく訳ですね。で、自分の
責任においてというのと、向こう側の責任において
背負わされたもの、色々色々あるけれども、とに角
業に満ちた世界であっても、この世界を、誠実に
生ききることによってですよ、つまり、味わいの深い、
人間として人の心のひだまで感じとれるね、霊的な
とか何とかそういうこと抜きにしても、本当に
人間らしい優しみとか寂しみとか悲しみとか、
そういうことが底深くわかる人、そういうものに
なってゆく。そういう人になっていく。それがまず
大事なんですね。

 宗教とか何とかってことよりも、そっちの方が大事
なんです。その一つ一つ、その瞬間瞬間に、本当に
悩んで苦しんで喜んでってことが出来ない人ね、
中途半端に何かこう“神様”ってすがるとか、誰かに
言っちゃうとか、そういうことだとやっぱり真剣に
この世の中を渡ってゆくってことが出来ないんですね。
 だから、悩みきる、悲しみきるということ。悲しみ
きったら今度は喜びの方へ上っていくしか
ないんですよね。

 光というものは闇を被います。被いますけれど、
やっぱり一旦暗いところのその気持ちに一回沈んで、
底の底の気持ちというものを人間として味わって、
だから、光を今度あの人の為にまわりの為に
祈らせて下さいってことを言えるわけでしょ。その
経験がなければ、我々はこの光を分け与えると
いいますか、自分が光であることを自覚をして、
そうして世界人類が平和でありますようにという
この祈りの運動をですよ、世界中に広めてゆく
という、このことはなかなか出来ないんですね。

 人間が光の子であるならばね、神様からの光の
一筋であるならば、そこでもう何も迷うことなく
そのまま行けばいいじゃないかという人がある。
 確かにそうなんです。そこに行けば苦労が
なかったわけ。だけども今この地球のこの世の中に
生きてる我々の肉体というものを、肉体によって
養われている生命というものを、やっぱり愛しんで
やらなければいけない。今の自分のありのままの姿
というものを認めてやらないと、一挙に光のところに
行ったら、それこそそれはもう気死しちゃう訳
ですよね。で、やっぱりだめになっちゃう。その辺の
所は向こうの世界はようく分かってるんですね。

 だから、ちょっとずつでいい訳です。ちょっとずつ
でいいけれども、と同時に神界は、最速度で何とか
出来ないかということで、世界人類が平和であります
ようにという世界平和の祈りを私に与えてね、私の
生命を使ってこの教えを広めさせてる訳ですから、
だから、このエレベーターに乗ればいい訳ですよね。
 エレベーターに乗って、そうして自分を素直にして、
自分を見る、まわりを見る。そうして、ありのままで
生きてく。その事が自分の人生を深くし、まわりを
愛深くみることになり、自分自身を充実させること
にもなる。精神性だけじゃいけませんよ。現実の
泥まみれになるという経験もやっぱり守護霊さん
守護神さんから与えられるものなんですよね。

 ある時に我に把(とら)われる。自分で我に把われる
こともあるけれども、把われさせられることだって
ある。それによって自分の魂が何を欲しているか、
自分がどう生きなければならない人間なのか、自分の
持ち場は何なのか、真実に生きるということは
どういうことなのか、そういうことをやっぱり
知らされるということもある訳なんですね。だから
その辺のことをやはり弁えて祈っていく。とに角、
祈りの中へ自分を放り込んでいく。ということが
一番大事なんだということを、我々は心の中に静かに
想い返して、そうして、世界平和の祈りを
してまいりましょう。
            昭和63年5月5日
               五井 昌久