わだつみの華

あなたの心という大海原を
心地よい風が渡っていきますように

(記事はリンクフリー)

行為の光明化

2012-04-03 08:19:31 | 癒し
 世の中に、不思議なこととか、思いもかけないこと
とか、何でこんなことが起こるんだろう、とか。と
いうことが沢山あることですけれども。そういう
ことに把われてると、人間というものは心がだんだん
苦しくなってきて、そして、がんじ搦(がら)めに
なってきて自分というものが分からなくなってくる。
 私共の方で自分というのは、この肉体の自分だけ
ではなくて、何十回も何百回も言っておりますように、
本体の本心の自分ということを私達は問題にして、
そうしてそこへ自分が還っていくように祈りを重ねて
生きていく。そのお手伝いをしている訳であります。

 ところが、この日常の中で自分がという場合には、
その自分の中の見えない世界の自分というものは、
もう忘れ果てておりまして、なかなかその自分が
自分がの自我の方の自分が沢山出てくる。それで、
色んな人と付き合ったり、付き合った末に悩んだり
悲しんだり喧嘩をしたり、まあ取組み合いの喧嘩を
するかどうかはわからないけれども、何かそんな風な
ことが重なり合って、そこで窮屈になって、何で
自分がこんな目に合うんだろう、何でこれだけ自分が
やってあげたのに相手に感謝されないんだろうとか、
何で自分の想いが通じないんだろうとか言うけれども、
それは大きく言えば、我の世界の自分でありまして。
 その把われの世界に生きてる以上、人間という
ものは非常に不自由な窮屈なものになるのであります。

 そこで私は前から消えてゆく姿というものをですね
提唱して、そして、色んな想いが出てきても、それは
自由自在な自分に還る為の消えてゆく姿なんだと。
 だから、色んな想いが出てきても、ああこれは
過去世からの業が消えてゆくその姿なんだと思って、
その瞬間に、神様五井先生と言って、こっちへ返して
くれれば、それでこっちはパーッとサーッと浄めて
ゆけるんだということをずっと申し上げて来ている
のであります。それでも尚且つ出てくる。出てきても
構わないんだということを私は申し上げている訳
であります。

 日常の生活というものは、お金を儲けなければ
ならない。生きていかなければならない。食べて
いかなければならない。そういうことがあります。
 そういうものを捨ておいて、それでただ神様神様
と言ったって、なかなかそれはやっていけるもん
じゃない。覚悟もできるもんじゃない。そういう
ことは、皆さんの私達の守護霊さんがもう百も承知
千も承知でありまして、だからこそ日常の色んな
苦しいことがあっても守ってるんだということを、
世界平和の祈りの中で教えている筈で
ありますけれども、なかなか目に見えないこと
でありますから、そこで、愚痴も辛いという言葉も
涙も出てくる訳であります。で、私共は愚痴っても
かまわない、とに角、光の本体である自分を
その都度その都度、五井先生出して下さい、神様
出して下さい、というその祈りを受けてやって
いく内に、だんだんだんだん人間というものは
光そのものへ、光明そのものへ本来の自分
そのものへ還ってゆくんだということを教えて
ゆかなければいけない。

 その為には、日常というものを馬鹿にしないで
生きるということ。現実に人間である我々は、
肉体身が終わるまでは肉体をかぶってですね、
いくら霊体が本物だ神体が本物だっていったって、
この世の中生きてゆかなきゃいけない訳ですから、
その肉体を大事にして愛して、そしてやっぱり
それを養って生きていく。その為にどうすれば
いいかということを、この智恵というものを
祈りの中で考えついてゆかなきゃなんない。その
お手伝いを、私共宗教者はしなきゃいけない訳で
あります。ですから、私は無理なことをしろ
とはいいません。あるいは無理な霊能力をつけろ
ともいいません。つけさせようとも思わない。

 霊能力なんてものは、皆が皆あるといえば
あるんです。そういうものが見えるとか見えない
とか、色んなものが出てくるというのは、これは
前生からの因縁といいますか修行の結果で、
そうしてしかも、それが見えても聞こえても、
なかなか把われないところまでいくには大変な
ことでありますけれども、見えてる人、
聞こえてる人、何かさせられてる人というものは、
神様が必要あってそこでなさる訳ですから、
させる訳ですから、それはそこで素直になって
やっていけばいいんです。

 ただし、そういう役割の人であっても、やはり
日常の営みを忘れるという風なことがあっては、
これは人間として宗教者としても、やはり片輪に
なってしまう。片輪にならないでどうやって
バランスをとって生きていくかということになると、
色んな所へ飛びこんで、あるいは飛び込ませて、
苦労をさせなくちゃなんない。その苦労というのも、
何もお金の苦労をさせる、人付き合いの苦労を
させて守護霊さんが魂の修行だからといって、
こっちでじいっと冷然と見てるという訳では
なくって、苦労してるな苦労してるなと想いながら
光を差しのべている訳でありますけれども。当の
苦労をさせられてる本人というのは、苦労の方が
目前にきていますから、光がなかなか自分の方へ
向いてるなんていうことは考えも及ばない。
五井先生にこんな風に頼んでおいたのになかなか
こっちの方へやってもらえないとか、まあ給料
少ないとか、色んな愚痴がこっちへ届いて来る
訳です。それこそ人間的な愚痴がこっちへ
来る訳ですけれども。

 しかし、私共は、天命というものをずっと通して、
その人の天命が本当に真白になって神様の中にずっと
融け込んでいくというその為に、守護霊さんや
守護神さんやあるいは私や神様や皆が苦労してる訳
ですから、その苦労というものは実は、肉体人間が
苦労する、一時の感情で揺れ動くという風な苦労の
何十倍何百倍何千倍な訳です。だけれども、それは
苦労は苦労とちっともこっちは思っていない。思って
いないというのは何故かというと、それは一人一人
皆さんが可愛いからであります。可愛いくなかったら
こんな苦労なんか出来っこないんです。一緒に
泥まみれになって苦労したりですね、泣いたりですね、
喚いたり恨んだり、いちいちやっぱりこっちも
感情移入をしながら、特に私なんか感情移入を
させられながら、一人一人見守っている訳ですから、
これが本当に肉体だったらたまったもんじゃない
と思う程、今何万人もの何十万人もの人の想いを
受けたり返したりしている日常でありますけれども。

 とに角、私共が光であるということを肝に銘じて
おりますと、不思議なこととか、とんでもないこと
とか、思いがけないこととか、そういうものが
起こってまいりましても揺ぐということが
少ないんです。何故なら、いつも申しております
ように、本体というものは揺がないんである。
 本心というものは揺ぐということはまず
有りえない。揺ぐものは気持ちがゆらぐ。感情が
揺ぐんであります。ちょうど波が風を受けて
騒いだりあるいは嵐が来て波が波打ったり
するけれども、海の底はちっとも平和そのもので
全く(何も)波立ちも何もしない。調和そのものの
世界である。魚だとか海藻だとか、そういうものの
生命をそのまま受けて安らがせている様に、何ら
調和の世界に変化はない。

 そういう調和の世界というものを、生命さながらの
世界というものを、実は人間は一人一人の中に
持っている。一人一人が神の宮なんであるという
あのイエスの言葉というのは、本当にここのところに
おいて真実な訳です。あるいは、釈迦が汝ら精進せよ
と言ったように、自分が死んだ後もずっと努力して
いきなさいと、祈りの生活を続けていきなさい
と言ったのは、この調和の世界が自分の中にあるんだ
ということを絶えず確認する努力をしていかなければ、
肉体身というものは弱いから、自分の中にそんな
調和の世界があるなんてことはなかなか分からない。
あるいは又もっと話を別の方にすると、法然にしろ
親鸞にしろ日蓮にしても、南無阿弥陀仏、南無妙法蓮
華経というあの六語なり七語なりの中に生命をこめた
言葉があるという発見をしたのは、あれは非常に
素晴らしいことでありまして、あの中に本当に
さながらの光明が生き生きと生きづいている訳
でありますけれども、しかし、南無阿弥陀仏
と言ってしまってサッと悟れるかというと、
なかなか肉体人間そういう訳にいかない。ただ
南無阿弥陀仏にしても何にしても、その中に光が
あって、光のエレベーターに乗って、それが
サーッと高い所まで自分を連れていってくれるんだ、
自分の心の奥底にある調和の世界に自分がそのまま
合体して合致して生きていけるんだ、生き通しの
生命なんだというところまでの自覚を、あの
南無阿弥陀仏にしろ南無妙法蓮華経にしろ、あの
真理そのままの言葉の中に人間は合体した時に
光になってゆけるという、この大きな真理を発見
したというのは、これは大変なことなんであります。
 それはちゃんと、日蓮なり親鸞なり法然なりの
後ろに大きな大きな深い働きをする守護霊さんが
いて、そういういわゆる末世といわれた時代に、
本当に人間が救われなければならない、その魂の
要求にみ合った道は何であるかということを、
あの人達に示した訳であります。
 ところが今は、色々なものが情報が多すぎて、
見るにしても聞くにしてもあるいは行動する
にしても、飛行機であれば世界中どこへだって
行けますし、ニュースなんていうのは一日の内に
地球の裏側からでも入ってきますし、だんだん
だんだん世界が狭くなってきて、そして、
だんだんだんだん自分のまわりの関わりがそれと
反比例して薄くなってゆく。親子であっても何か
親が信じられない、子供が信じられない。そういう
世界になっていった時に、自分というものを本当に
今この瞬間に見つめられてる人がどれ位あるか
というと、これが非常に頼りないことに
なってきている。だから、自分というものが
見つめられずに自信が持てずに頼りなくなった時に、
じゃあどうするかということが、今この世界中の
生きてる人間たちの共通の悩みになって
きている訳であります。

 そこで色々な芸術や文学や美術などの方面で、
そういうものを、慰めを、あるいは何とか人間が
この突破口を作って、そしてそこから抜け出して
自由な生命になるにはどうしたらいいかということを、
宗教だけじゃなくて、色んな方面の人が今手さぐりを
している。もちろん宗教者もそれをやる。

 だから、この間のような宗教のサミットなんかが
開かれたりして、そして、あれは色んな人が集まって
来た訳でありますが、その共通の根本の願いというか
祈りというか、我々を結び合わせているものという
ものは、やはり、世界人類というこの一つの大きな
深い命題でありまして、我々がこの地球に生きている
ということ、そしてこの地球に生きている以上、この
人類が平和でなければならないという非常に素朴な
ところから始まるこの言葉、それへの祈念という
ものが、あのサミットを成功させたのであります。

 そして、我々が唱導しているこの世界人類が
平和でありますようにという祈りは、ただ、単に
この地球に生きている人間が平和であるように
というだけの祈りではなくて、この我々人間が
平和な気持ちになれば、調和する気持ちになれば、
自然に我々が生きてるまわりのこの自然をも大切に
するし大事にして、あらゆるものの生命を尊んで
ゆくし、それは我々の中の霊性というものを
目指して、そして、奥の自由な体というものは
もう自在になってゆけば、地球だけにこの生命が
生きてる訳ではない、宇宙の調和そのものの一環が
地球に生きてる我々人間の体の中に埋め込まれて
いるんだということに気がついてゆけばですね、
これは、宇宙全体に本当は鳴りひびく祈り
であるんだ、世界人類が平和でありますように
というこの一句(く)の中には、宇宙全体が求めて
いる祈り、調和そのものを求めていく祈り
というものが実は込められている。

 宇宙子科学のメンバーが、今必死になって
計算したり何だかんだやっている。それというのは、
地球の波動というのは今実は一番遅れている。
 それは何で遅れているかというと、宇宙人類
というものは、本当は心波でもって心の波でもって、
自分が調和した心の状態にある調和こそが
この世界の最大目標なんだということを知って
いる訳です。それに反して地球の人類というものは、
肉体を本来の自分だと見誤(あや)まって、我(が)の
世界できておりますから、この我を脱ぐために随分
苦労をしている。先程申しました様な、親鸞
にしても法然にしても釈迦にしてもですね、
あるいはイエスキリストにしたって、その我を
脱がせる為の先覚者であった訳ですけれども、
それはそれで大変に光明を発揮した訳ですけれども、
今はとに角、これ程国が分かれて、そしてこれ程
色々な紛争の種があって、人間が短気になってる時に、
どんな風にしたら本来心の芽を導き出して、そして、
それに肥料を注いで芽吹かせるかということに
なれば、これはもう世界人類が平和でありますように
という言葉を根にする以外にはないのであります。

 そうして、この宇宙人類というものは、もう
とっくにそこに気がついておりまして、自分
というのは自分の心の波の奥底の世界によって自分が
動いている。神様の意志によって動いている。神様に
よらない生命というものは何一つないということを
分かっておりますから、そこで、争いとか無用の醜い
姿とかを晒すとか、そういうことは全く有りえない。
それを何とかしてそこの方向へ持って行こうと
しているのが、宇宙子科学のメンバーが今必死に
なってる作業でありますし、昌美なんかが今一所懸命
アメリカでやらされている作業というのは、
地球人類の波動を四次元五次元六次元七次元、とに角
高次元に、宇宙人類の心波の世界にまで高くして、
そうしてそれを知らず知らずの間に埋め込みそういう
ブラウン管を埋め込み、アンテナを埋め込むという
その作業なんであります。

 ところが、この波動があまりにも細かいもの
でありますから、全部に行き渡らせるといっても、
まず誰か受け手がなければ、これは非常に強烈な
心波そのものをもってきて今の地球人類のこの我の
世界にポンと投げ出しても、その光の波だけで皆が
気死してしまうような、そういう強烈な波
でありますから、それをまず受け器である昌美が
受けて、そうしてその波動をどんどんどんどん
割っていってですね、小さな小世界をずっと
作っていって、性能は同じものですけれども、
それをどんどんどんどん皆に分けていくと。
 その為に今一所懸命祈りの世界の中に入って、
大神様の中に生命をあずけてやってる訳です。

 取り敢えず、皆が生きる為の、生きるというのは
肉体の生命が生きるというんじゃない、宇宙人類の
中の兄弟の一人である、そうして人類というものは、
平和な争いのない、しかも愛深い神様の御心に適う
器でありたいと望む、そこへ持っていくという
ことを大本願にして進まなきゃなんないんだ
ということを、まずこちらがスイッチの切り換えを
今やっている訳であります。

 じゃあ種を分けたその種を10個なら10個
持って帰ってきて、昌美がどんな風に埋め込むか
というと、それは、そこから守護霊さん
守護神さんの世界になる訳でありまして。
 たとえば、世界人類が平和でありますように
というあの世界平和の祈りの中に、その種を
入れていってしまう訳であります。
 そうすると、皆さんの守護霊さん守護神さんが、
その種ごと世界人類が平和でありますようにという
祈りを受け取りますので、それを口に宣べて祈りを
唱える。あるいは心の中で唱える。フェローの人は
フェローの印を組む。講師は講師の印を組む、
という中で、浄めの中で、スーッとその体の中へ
その種が入っていく。そうしますと、知らず知らず
の内に本心開発がなされていって、不思議なことも
思いがけないこともやり切れないことも、だんだん
芽を出さなくなっていく。

 芽を出さなくなるというのは、感情が鈍くなる
とか感じなくなるとか、そういうことでは
ありません。それとは全く正反対のこと
でありまして、感受性というものは鋭く深くなって
いくし、愛も深くなっていくし、どっちかというと、
今までよりももっともっと心の襞の細かい波動の
細かい人間になっていく訳でありますけれども、
人間というものは、いつも私が申しております
ように、人、霊に止まると。あそこへ還らなきゃ
いけません。我々が霊の生命であって神の生命
であって、霊妙な朗らかな生命の根本に還った
時にはじめて、世界人類の平和というものは完成を
されるわけであります。まだそれが、肉体人間の
想いや迷いなど色々な荒い波があるこの地球世界の
中で、ただ単にそういう願いだけでは弱すぎる、
祈りだけでも大変だというので、取り敢えず
世界平和の祈りというものがこちらへ与えられて、
そしてそれが真理の言葉になってそれを手助けする
為に、守護霊さんや守護神さんやあるいは霊団
というものが後ろでパーッと働いて、今この改革を
どんどんやっている訳であります。

 ですから、今なんで自分がこんな所に居なきゃ
なんないんだろう、なんで今というのは、それぞれ
皆あると思いますが、そのなんで今というその
やりきれない場面だとかを見せられるというのは、
それが一つの人間のいつわりのない姿なんだ
ということ。いつわりのない姿を見せられて、
そしてそれを受け入れる。皆それぞれ人間
違いますから、まるで同じということは
ありませんけれども、自分の中にもそういう
嫌な面、辛い面、やり切れない面、肉体人間
であるならば自分の中にもその芽があるんだという
ことをじっと見つめてそうして、しかもこういう
人間であるということは百も承知千も承知で
守護霊さん守護神さんというものはあるいは神様
というものは、我々の生命を天命を引き受けて
下すってるんだということをちゃんと自分の奥底に
自覚をする。その為の世界平和の祈りであり、
その為の宗教信仰であるということを考えて
まいりませんと、ただ現象のことだけに把われて
何でだろうと考えてしまうだけでは、我々の進歩
というものは止まってしまうのであります。

 人間というものは人類というものはあるいは魂
というものは進化をせずにはおかないもの
であります。何故かというと、完全な平和とか
完全な調和とかあるいは完全な愛にむかって
進まないではいられない、そういう性質を我々の
本体というのはもっておりまして、あの
霊光写真の中に現れているああいう真白な
何の障りもない、あの光そのものになる為の、
なりきる為の祈りというものを、我々の本体
というものは欲している訳であります。
 その為に色々なものが、うちの会であるならば、
平和行進があり世界平和の祈りがあり
ピースセレモニーがあったり、ピースポールを
建てたりという行事がある訳であります。

 ただし、その行事そのものも、ただピースポールが
建てられればいい、ただセレモニーをやればいい、
ただ祈りの会をすればいい、何回行進をやった、
先生を呼んだというのは目的ではありません。
 それを通して、自分の中の魂の芽が幾分かでも
発芽をして、そうして自分の中の魂が浄められて
いくような、そういう実感を味わう、祈りを深くする
ということがなければ何にもならないのであります。
 それでなければ、それはただ単に形の世界に
とどまることでありまして、これは、進化とも
何ともなっていかないものなのであります。

 ところが人間というものは、やはり矛盾を
する様でありますけれども、ある程度のしるしなり
形なり何かの成果なりというものを目の前にして
おかないと、やはりこれは非常に不安になる
ものでして、そのある程度のしるしなり形なり、
例えば、本部から講師の先生を呼んで話を聴く、
皆の中にいる自分というものを自覚をしてはじめて、
じゃあこの言葉について深く考えてみようかとか、
色々なことを自分は考えられる。そういう場が
与えられてはじめて人間というものはそういう
気持ちになってゆける。そういう部分がある
のでありまして、それを私は何も、それではだめだ
ということではないんであります。

 それは大いに利用したらよろしいけれども、
しかし、それを一つまちがうと、何回講師の先生を
呼んだとか、何回柏手を打ったとか、お浄めをした
とか、いう風な回数を数える様なことになって
いく訳でありまして。
 ところが魂の修行というものはそんなもの
ではなくて、回数ではないんであります。あるいは
成績主義ではないんであります。魂がどの程度
目覚めるかということは、我々の世界というものが、
我々の心の中の本心というものが、どの程度開いて
いくかということ、どの程度自分の中のものを
捨て去って無になってゆけるかということ
でありまして、その為に祈りがある。

 それで、祈りというものは、どの宗教で
ありましても、そういう自分の中の余分なものを
捨て去る。たとえ瞬間でも構いません。その
捨て去る時の充実と助ける為に祈りというものが
あるんであります。主の祈りにしても、南無阿弥陀仏
にしても南無妙法蓮華経にしてもそうであります。
 どこから入ってもそれはそうであります。光明は
絶えることはありません。

 けれども、今この現代の世の中で、「世界人類が
平和でありますように、日本が平和であります
ように、私達の天命が完うされますように、
守護霊様守護神様ありがとうございます。」
という、このどこをとり上げても無理のない、
感謝と愛念に満ちた、この祈りを唱えること
によって、私共は私共の中に常にある、しかし、
常には眠らされてる神性と、私共の肉体が一致を
して、そして、肉体は肉の身のままに光と化して
いくことが出来るのであります。その光と
なっていく日常を重ねていくことによって、
だんだん肉体が肉体のままでありながら波動が
細かくなっていって、そうしてついに、全く
死にきってむこうに行かなければ波動が細かく
ならないという様な時代ではもうなくなって
まいります。でなければ、この世の中というものは
常識に照らして動いていくものでありますから、
この世の中の常識に照らして動いていく世の中で、
光明というものが働く為には、自分の波動が
いつの間にか光明化されて、そして肉体のままで、
何も祈りをするとか会に出るとかそういうことでは
なしに、知らず知らずの内にやっていることが
光明化されていくと、自分の口から出る言葉
あるいは接する態度、眼差(まなざ)し、そういう
ものが和らぎに満ちたものになっていく。

 それだけで、それはそこに愛念が輝くという
ことになっていくのであります。そうして、
私などはそういうさり気ない態度の方が
むしろ大事であると考えている訳であります。  

 宗教といいますと、ことさらに祈りを何度
しなければならないとか、ねばならないという
規制が沢山あった様に思います。けれども、これ程
複雑な世の中になってまいりますと、ねばならぬ
ということが非常に窮屈になってきておりまして、
あるいは実際の生活上できないということになって
きておりますし、実際、本体をたずねてみますと、
あるいは本来の神様の姿というものをたずねて
みますと、そんなものではないのであります。神様
というものは、人間が今何を悩みどう苦しみ、
だから何が必要であるのかということを何もかも
ご存知で、その上で私に世界平和の祈りという
ものを与えて、この世界をあるいは私達一人一人の
人間を光明化していく、手助けとするように
ということで、私は任命されたのであります。

 でありますから、何にも考えることはいらない。
 とに角最初に申し上げました様に、色々な想いが
出ても迷いが出ても、あ、これは消えてゆく姿
なんだ、腹が立ってもかまいません。腹が立ったら
腹立ちのそのままを私に下さればいいわけ
であります。皆さんぶつぶつ言うとか、皆さんが
必要以上に嘆き悲しむとかいう時は、それは
私に対する預け方が足りないのでありまして、
そんなことまで五井先生に言っちゃったら申し分け
ないとか、こんなことまでと言っても、こちらから
見ておりますと皆見えておりますし、皆聞こえて
まいりますし、見ようと思えばこちら全部見える訳
でありますから、隠しようがない訳であります。
 で、そういう状態であるということは、一人一人
残らずこちら見えておりますし、こちら知って
おりますから、それならばいちおう全部預けて
任せてですね、そうしていただき直しの生命を
又新しく貰うということの方が出発がしやすい
のであります。あるいはこちらもさせやすい
のであります。ですから、どんな時であっても、
神様というものは人間を愛さないということはない。
 たとえ不幸のどん底にある様にみえているその時
でも、あ、これで過去世のそういう苦労が一つ
消えたなあ、こちらの方では計算ができております。

 なかなか人間の方はそうはまいりませんけれども、
泣きながらでも、祈りをして下さるとこちらでは
光を送りやすい。あるいは祈りが出来なくっても、
それはその時は、こちらの方で何とでも
致しますから、とに角愚痴であっても何であっても、
神様の方へ顔を向けながら愚痴を言う。あるいは
文句を言う。神様を忘れて文句を言いますと、
それが業になってどうどう巡りを致しまして、
どうにもならなくなってまいります。それで
がんじ搦めになって、そういうのを魂の入らない
仏に近いというのであります。

 我々は、人間というものは、飽くまでも進化を
せずにはおかない、あるいは、せずにはいられない
魂、心というものを本心というものをもって生きて
いるということを考えておりますれば、なかなか
光から顔を背けられないのであります。背けたいと
思っても背けられないのが人間なんでありまして、
その辺を考えてゆきます時に、我々は、会に出ようと
出まいと、印をきろうときるまいと、祈りの言葉が
出ようが出まいが、ちゃーんと守護霊さん
守護神さんが守っていて、こちらから私が見ていて、
神様がいるんだということさえどっかに置いといて
もらえれば、知らず知らずの内に本心開発が
出来ていく。あるいは祈り言葉も出てくる。そういう
もんである。そうしていく内に、だんだんだんだん
人間の魂も肉体もあるいは言葉も、自然法爾(じねん
ほうに)の世界にすーっと入っていく。ということを
今日ここで皆さんの心の中へ種をまいておきたい
と思うのであります。
               昭和63年5月5日    
                  五井昌久