わだつみの華

あなたの心という大海原を
心地よい風が渡っていきますように

(記事はリンクフリー)

短 信(25)

2013-07-22 08:52:07 | 癒し
 私は今筆を走らせながら、今度のことを
どうあなたに謝まればいいのかと言葉を
失っています。

 あなたが、今回、受けた傷の深さは、
どういやしても、いやし切れるものではないと、
あなたの心の苦しみを、ひびきのなかで
受けとめて、涙がとまらずにいるのです。 

 あなたが受けた拒絶と、孤独は、私にしか
わからないだろう。
 なぜなら、それは、素直な霊能、霊覚を持ち、
赤児のように神に素直な人が受けた孤独であり、
拒絶だからだ。あなたが、否定されたことは、
私が否定されたことに他ならない。

 けれども、私は、原稿をはじめとして、一連の
この私の声を受け留め、正しく判断し、かつ、
会が、本当の意味で発展してゆくためには、
是非とも、あなたという人を必要としたし、
今も、そして将来にわたって必要としている
ことにかわりはない。それは、ただ単に、現世
での私との、又、会でのつながりというばかり
ではなく、神界を含めた真実の人間世界、
人智から神智へと移りゆく、本当の大調和を
目ざし、また実成を大目標としておられる
神の愛があなたという人を選んだのです。

 世界平和の祈りによって、大分、地球世界の
波がかわったとはいえ、心霊一如、肉の身のまま、
霊人であることを自覚する朗らかな空気へと移行
させるためには、思い切った神界の英断が必要
であったわけなのです。実際、神界の一瞬の
すぎゆきは、地上での二、三年にあたっています。
 だから、あなたの家で錬成会を向こう三年間
開くといっても、こちらでは、それらはすでに
おわって、いくつもの成果が出ているといった
具合なのです。このことは、霊界に自由な
霊身をはこぶことのできるあなたなら、容易に
納得されることでしょう。

 けれども、はがゆいことに、現在は、あの世を
うつしたものでありながら、波動があらいために、
いくつ何十もの業生の波を受けねばなりません。
 およそ、あらわれというものは、それがよい
ことであれ、悪いことであれ、現世で、一つの
かたち、あらわれとなる時には、それにみあう
抵抗を受けるものなのです。
 まして、私が、はっきりしたあらわれ方をした
などということについては、会自体の幾つもの
おもいの枠があり、あなた自身にとっても、私の
ひびきを感受しながら、会と会の方達との間に
たって、どれ程苦しみ、また孤独におちいった
ことかと、真実申しわけなくおもうのです。
 しかし、それでも、人間の真性の目覚めの
ために、人類のかぎりない霊的進化(なぜなら
人間は霊そのものなのですから)のために、私は、
もう一度、地上に呼びかけねばならなかったし、
それを、何のうたがいも迷いもなく、感受
出来るのは、あなたしかいなかったのです。
 いや、今もいないのですよ。でも、つくづく
霊的ということについての孤独の深さを考えると
ため息がでますね。

 それは勿論、どんな賜物も、神様からきている
もので、上下なんかあるはずはないんだけれど、
宗教という、神のみこころを伝え、また体現
してゆく世界では、その教祖や、指導者、
神に仏に、従っていった先覚者は、みんな
すぐれた霊覚を持っていた。現代でも、宗教の
本当の生命ーつまり、人間のいのちが、大神様、
宇宙神のみこころに溶け入って、遂に愛の光の
一筋となる生命を語るためには、こうした
すぐれた霊覚を得た指導者を持っていなければ、
その宗教は、日ならずしてほろんでしまうんだ。

 けれど、こういう霊覚を得ながら、肉の身を
まとい、肉体人間の言葉(不自由な)を
語ることが、どれほど辛く、大変なことかは、
これは、経験した者でなければわからない。

 神のひびきそのままを伝えたい気持ちに
幾度となくかられ、しかし、それはまだ
許されてはいないことなのだ。

 神様は、生命を投げ出した私に、私の悟る
以前の個性を残して下さった。だからこそ、
私はどんな人とも、肉体の私として、気軽に
話ができたし、地球全体、広く宇宙人類のために、
わかりやすく、真理の言葉をその人に合わせて
語ることができた。

 現代という時代には、一時代前の聖者的な
おもかげを色濃くした教祖よりも、およそ、
人間らしい、教祖らしくない教祖が、そして
宗教のくさみのない宗教が求められたわけだ。
 そんななかで神我一体以後の私は、実に
さまざまな人に出会い、神の愛を説きながら、
その一方で真理を直裁に語り切ってしまいたい
気持ちにかられ、孤独になり、そして、その
孤独をいやして下さったものは、ただ神の愛
であったのです。

 だから、あなたがある人を介して、私を訪ね、
大法山の歌の不思議をたずねてきた時、
あなたのなかに、本当にすぐれた霊能を感じ、
同時に、あなたのためにやり切れない思いに
おそわれたことを告白しましょう。この人も私も
おなじような孤独に、苦しめられ、或る意味で、
自分を神に預けながら、ひとりになり切って
ゆかねば、道がひらいてゆかないのかというのが、
その時、私のおもったことであり、私の
およぶ限り、あなたの孤独は、私がいやそうと
瞬間に感じ切ったのでした。

 霊能霊覚を持つ者の孤独は、他人よりもはやく
真理をしらされることであり、そういった事実、
状況を、他人が、徹底的に理解しないという
ところに生まれるのです。

 おなじ肉体身でありながら、そして、おなじ
言葉を交わしながら、霊能を得た人は、神の
言葉を預かる預言者としての役割を、肉の身
と同時に与えられていて、そのことが、その人の
人生を狂わせもし、またかなしみを味わうこと
にもなってゆくのです。これは、本当に不自由な、
理不尽きわまりないことです。しかも、心ある
宗教者は、これを耐え、これをよしとしなければ
なりません。なぜなら、それが、神のみ旨であり、
おおみこころを、地上にあらわすためだからです。

 私は、さっきから霊能霊覚といっていますが、
もとよりこれは、あなたの霊能霊覚を指すのです。
そして、こうしたすぐれた霊能霊覚は、何よりも、
神様に素直な霊覚ということなのです。
 宇宙万法の源である神の愛、千古よりの真理に
つながる霊覚は、神に素直という、ただこの一点
からのみ与えられるものであります。千の知識も、
万の富も、それだけでは、永遠のいのちの流れ、
真実の人間の姿につながるものではありません。
 たとえ、これらのものをすべて失っても神に
つながるまっすぐな道は、素直に神をしたう心、
神を求め、そのみこころが、完全に地上に
あらわれることを祈り求める心なのです。

 神にすなおということは、ただやさしさばかり
では成り立ちません。やさしさの中に、本当の
つよさがつちかわれなければ、そのすなおさは、
みがかれず、又、永続しないのです。神にすなお
ということをつらぬこうとするのは、
この世的には、だから大変至難なこと
なのであります。

 現世に生きる以上、霊要素だけで、人が生きて
ゆける筈はありません。肉体を養うために、
人間は喰べもし、又飲みもしなければ
なりません。
 そしてこの必要最小限の条件を満たすためには、
人は社会の中で、職を得、立場を得なければ
なりません。宇宙神から分かれた神の
分生命(わけいのち)である、本来の人間の
本心本体のかがやきが、こうした日々の必要に
迫られるなかで、いつしか霊波動、精神波動
よりも、物質波動優先となり、業想念が渦まいて、
光の子である真性を失っていったのです。
 こうしたことは、あなたには今更という気も
なくはないのですが、あなたが今、おちいって
いる世界、孤独の世界は、業想念におおわれた
肉体人間の性質、思いグセに他ならないからです。

 あなた方の会といえども、神様の世界、
完全調和の世界からみれば、まだまだ人間の業
というものが、幅をきかせています。在世中、
会員のみならず、会員の家族その他、私の
ところに訴えられる業の波を、私は瞬間瞬間に
世界人類が平和でありますようにという、
祈り言のなかで光にかえ、或いは人類の持つ
想念の波を浄めながら、それでもなお、業の波は、
情ようしゃなく、私に押しよせてくるという
歎きを、詩にうたったことがありました。
 あなたは覚えているでしょうか、勿論、私は、
人間の真性が光であることを識っていますから、
この歎きにとらわれることはありませんでしたが、
それでも、一瞬、深く、その歎きは私をとらえ、
うたわずにはおかない気持ちへと私の心を
駆り立てたのです。

 この人間世界が、人智から神智へとむかう
ためには、肉体を脱いで自在身となった
神界の私と、救世の大光明団に支えられている、
会の二つながらの働きが会長を助け、三位一体の
愛の光として、働かなければならない時期に
さしかかったのです。
 あなたが両者から受けた、いやしようのない
苦しみは、実は私がもし肉体の個我、宗教者、
教えをひらいた者の宿命として、多くの人の
なかで、霊覚のままに語ることを神から許され
なかった私が、人間としての孤独に押し流され、
その禁を破ったとすれば、容易に受けたであろう
苦しみです。

 人は宗教に救いを求めながら、自らの理解を
超えた世界には、実に冷淡なものです。そして、
このうらやましさのなかには、真の霊覚を得た者
に対するうらやましさと、及びがたしと敬して
遠ざける思いと、平凡な肉体人としての感情が
入りまじっています。奇跡がおこる、ありうる
ということを頭のなかでは理解しても、事実
目の前に提出されると、これを拒む頑迷さから、
まだ、人類世界はいくらも脱皮していません。
 そんななかで、世界平和の祈りの大光明に
守られて、宇宙神のみこころ深くまで、祈りの
階段を上ることのできるうちの会の人達は、
まだしも、久遠の神の光をあびているのです。

 祈りが、真理が絶対であればある程、その
真理の相(すがた)に反した姿をみせつけ
られること─これほどのかなしみはありません。
 いくら消えてゆく姿といっても、中々にその
傷がいつまでにいえますよという現世での、軽い
人間同志の口約束のようにはゆかないでしょう。
 なぜなら、その傷を負ったのは、あなたの心
だからです。心というものが、かなしみに
みたされた時、どれほど人に対して、又、社会に
対して、その傷をいやすまで、固く己れを
守り切るかは、私はこれをよくよく知って
いるのです。

 けれどね、あなたの間違っているところが
唯一つだけある、なるほど、接しられた二人に
代表されるやり切れない人間の業というものに、
あなたは沈んで、心を閉ざしているけれども、
あなたの閉ざせる範囲は、人間と、人間が
つくった、社会までではないか、神に対して、
神の永遠の愛とゆるしに対して、あなたは心を
閉ざしたのでしょうか、閉ざすことはできない。
 そうではありませんか。赤児のように純な
神に素直なあなたのたましいを、私は切なく
おもうと同時に、限りなく愛して抱いて
きたのです。今もなお抱いています。
 私のというより、神への赤誠をまれな賜物
として与えられたあなたの天命と、その天命に
対する信頼とは、今度のようなことで、
いささかもゆらぐことはありません。

 会が味わうべき生みの苦しみを、あなたは、
両者からの、もうれつの反発拒絶というかたちで
受けて、消して下さったのです。人を
追いこんでおいてと思うかも知れないけれど。
 会が果たしてゆくべき役割は、まだまだ
大きく深いものがあります。しかし、それも、
神様にすなお、神智にすなおという心があって
はじめて成し遂げられるものであって、
その資格を失えば、会は、この深く大きな働き手
としてのかがやきを失うでしょう。二人の大きな
個人の業生を、あの時消して下さったと同時に、
菩薩業としてのあなたの祈りの使徒としての
天命があらわれたのだと思って下さい。

 私の流れ、働きは、7月にあなたが彼女に
会った時に、自ら断じたように、こういう
具体的な流れは、他にあらわれてはゆきません。
 あなたの天命、彼女たち二人の天命は、
それぞれにちがったものです。
 ちがったものでありながら、この三者は一つの
働きー神のみこころを地上にあらわすということ
において一つなのです。

 統一の中でどうか、私によびかけて下さい。
 神の智恵がつねにあなたを守られますように、
あせる必要はありません。
                  昌 久