先日UPした記事でご紹介していた動画。。マイケル・ジャクソンの生前最後のグラビア撮影だった、雑誌『VOGUE』のドキュメンタリー。
何度も観るうちに辛くなったので、削除しました。あのラスト近くの苦しそうな表情を見ると可哀想で。。(5月7日追加・・・今朝、その理由を知った) 同じ年の『EVONY』のグラビア撮影の動画も観たけど、こちらのマイケルは『VOGUE』の時より、明らかにリラックスして見えました。『VOGUE』はまるで見世物のような扱いで、リスペクトを感じない。ちょっと(じゃない)マイケルに失礼なのではないでしょうか。
最近は、例の〝ドキュメンタリー〟のせいで、再びマイケルの辛い面を度々見ることになり、私は自律神経が乱れまくりです。
マイケルは晩年、愛する家族にまで鎮痛剤依存を疑われ、とても苦しい日々を過ごしたはず。でも、SLEという病気は意識が朦朧とすることがあるし、鎮痛剤との相性が最悪なのです。SLE自体が原因で鬱病になることもある。マイケルは鎮痛剤依存を強く否定し、「僕を信じてくれないんだね」と母キャサリンに言ったそう。。。私は彼を信じてるけど☆
マイケルが罹患していた難病はストレスが大敵。メディアや〝カネの亡者〟の罪は重すぎる。
マイケルの兄ジャーメイン・ジャクソンは、(意外にも)私の心に響くことを言っています。2003年の事件の際に彼は「弟は変人なんかじゃない」とキッパリ言い、マイケルの死後にFBIが17年間の極秘捜査を発表した時は驚愕し「なぜ弟が生きている間に言ってくれなかったのか」と涙ながらに述べました。
ジャーメインは、私が読んだある本には弟に多少嫉妬気味で気難し屋な性格だという風に書かれていたので、こんなに頼もしい兄だと知り、思わず「意外」だと思ってしまったのでした。失礼しました。
というわけで本題。
今日は、雑誌『Rolling Stone』に掲載されたマイケルの娘パリス・ジャクソンのインタビューを、大事なところだけ抜粋してご紹介します♪
前ブログで記事にしていたのだけど、今はインタビュー記事がネットから削除されているし、私の元記事はロクでもないので、書き直すことにしたの。
インタビューは2016年の11月~12月頃に行われたようです。残念ながら、日本版には掲載されませんでした。
では、さっそく。
【(前略)パリス・ジャクソンは2016年4月に18歳になった。大人びた面を見せるときもあれば子どもっぽい面を見せることもある彼女だが、人生において大きな浮き沈みを経験してきた。彼女のヒッピーとパンクのミックス・ファッション(今日はタイダイ染めのボタンダウンにジェギンス、ハイカットのコンバースを合わせている)、そしてボーダレスな音楽のテイストは、まさに彼女が21世紀の申し子であることを物語っている。しかしながら、それ以上に、彼女はあの父親の娘なのである。「性格的には、彼女はほとんど父親そのものだよ」と彼女の兄プリンス・マイケル・ジャクソンは語る。「違うことといえば年齢と性別くらいのものさ。彼女の長所も、そして短所もすべて父親譲りだ。とても情熱的なところ、そして判断を曇らせるほどに感情的になりすぎてしまうところも」。そう彼はパリスとマイケルの共通点を説明した。
パリスは驚くべきペースでタトゥーを入れている。未成年時には数個だったのが、今ではその数50個以上である。そしてそのうち9個は、彼女が11歳の時に他界したマイケル・ジャクソンに捧げるものだ。あの時から彼女とその弟のブランケットは、かつての守られた美しい小さな世界から連れ出されることになった。「"時が癒してくれる"とよく言うけれど」と彼女は語る。「でもそんなことはない。ただ慣れていくだけ。"オーケー、たしかに私は大切だった唯一のものを失った"と割り切って生きているだけなの。そうすれば、これから起こるどんなに悪い出来事も、それほど悪くないと思って前向きに対処できるから」。マイケルは今でも彼女の夢に現れるのだそうだ。「いつも父が私と一緒にいると感じる」と彼女は語った。
自分をピーターパンだと捉えていたマイケルは、よく娘をティンカーベルと呼んでいた。彼女の鎖骨付近には"FAITH, TRUST AND PIXIE DUST"(信じる心と妖精の粉があれば)というタトゥーが刻まれている。また前腕には父のアルバム『デンジャラス』のカバーアートからの絵が、手には『バッド』のロゴが、そして左手首の内側には父の手書きの手紙からとった"QUEEN OF MY HEART"の文字がそれぞれ刻まれている。「父の存在は私にとって喜び以外のなにものでもなかった」と彼女は語る。「その喜びをいつでも思い出せるようにしておくのに理由なんて要らないわ」。
(中略)右の手首には、マイケルがアフリカで購入した翡翠つきのブレスレットを着けていた。彼が亡くなったときに着けていたもので、彼女の世話を担当していた使用人が彼女のために取っておいてくれたそうだ。「まだ父の残り香がするの」とパリスは語った。
(中略)父の死以前には自宅学習だったパリスだが、その後は私立学校に7年生から編入することになった。しかし彼女はまったく馴染むことができず、自分を受け入れてくれた友人とだけつるむようになった。「上級生たちがいろいろなクレイジーなことをやってたわ」と彼女は語る。「早く大人になろうとしすぎて、13、14、15歳の子どもがやってはいけないことをいろいろやってた。いい人間ではなかったわ」。また彼女はネットいじめにも遭い、ネット上での書き込みで受けた心の傷に今も苦しんでいる。「言論の自由には大賛成。でも、アメリカ建国の父たちが権利章典を憲法に加えていた時代には、ソーシャルメディアの存在は予測できなかったのよね」と彼女は語った。
(中略)彼女の最後の自殺未遂の後、彼女は10年生と11年生の前半をユタ州にある治療施設の学校で過ごした。「とても充実した時間だった。私はあの時とはまったくの別人だわ」と彼女は語る。そして、控えめに笑いながら「クレイジーだったのよ。実際、私は狂っていたの。ティーンエイジャー特有の不安みたいなものをたくさん抱えてた。そして誰の助けも求められないまま、鬱や悩みと戦っていたの」と続けた。彼女が言うには、彼女の父も生前は鬱に苦しんでおり、彼に処方されたのと同じ抗うつ剤を処方されたという。なお、現在では精神疾患用の薬は一切服用していない。
当時の悪行で今も続いているのはメントールタバコくらいのものであり、今は人生で一番まともでハッピーな時期を過ごしているパリス。彼女は18歳の誕生日のすぐ後、それまで住んでいた祖母キャサリーンの家を出て、昔のジャクソン家の屋敷へと向かった。現在、彼女はそこでボーイフレンドのマイケル・スノディと暮らしている。(注:2016年当時。パリスは今はガブリエル・グレンとお付き合い中らしい)
(中略)現在、彼女はマイケルが『今夜はビート・イット』のデモを録音したプライベート・スタジオに住んでいる。ロサンゼルスのエンシノ地区にあるジャクソン家の敷地には、まずチューター調のデザインが目を引くメインの屋敷がある。1971年にジョー・ジャクソンがジャクソン5最初期の印税で購入し、80年代にマイケルによって再建されたものである。主が住んでいないこの家は、現在改築中だ。そしてそのメインの屋敷から中庭をはさんだ位置に、マイケルが建てたレンガ造りのスタジオがある。サイズはキッチンとトイレ付きのまともなマンハッタンのアパートほどだ。そのスタジオを、パリスは温かなバイブスの宿る部屋にアレンジして使っている。
スタジオを見ると、そこにはマイケルの好みが至る所に反映されていた。入り口には額縁入りのディズニー・スタイルの絵が飾ってあり、そこには丘の上の城を背景にアニメ風に描かれたマイケル、そして彼に寄り添うブロンドヘアの少年が描かれている。その絵の下には"子どもたち、城、そして王"と書いてあった。中に入ると、絵が壁じゅうに描かれていた。そこにもアニメ風のマイケルの絵がコーナーに描かれており、"The Secret of Life"と書かれた本を手に、窓から花を見ている。そしてたくさん咲いている花の中心部には頬の赤い少女の顔が、やはりアニメ風に描かれている。
しかしパリスの好みは、父のそれとは幾分異なっている。トイレにはカート・コバーンの写真、壁にはスマッシング・パンプキンズのポスター、ラップトップにはアゲインスト・ミーとネバーエンディング・ストーリーのステッカー、そしてサイケデリックなペイズリー柄の壁掛けとたくさんのフェイク・キャンドルが飾ってある。アナログ・レコードの盤(アリス・クーパー、ザ・ローリング・ストーンズ)は壁飾りとして使われていた。カジュアルなカウンター・スタイルのキッチンに飾られているのは、クインシー・ジョーンズからマイケルに送られた額縁入りのプラチナ・レコードだ(「屋根裏部屋で見つけたの」とパリスは肩をすくめて言っていた)。
隣接のガレージの上はミニ・ミュージアムになっている。これはマイケルから家族へのサプライズ・ギフトであり、壁そして天井いっぱいに家族史を記録した写真が飾られている。ここではかつてマイケルがダンス・ムーヴを練習していた。(中略)
そのお部屋にいるプリンス。 ↓
近くの寿司レストランに出かけながら、パリスはネバーランドでの暮らしについて語ってくれた。彼女は7歳まであのアミューズメントパークと動物園、そして映画館つきの広大な夢の国に住んでいた("子どもの時にできなかったことのすべて"とマイケルはこの場所を呼んでいた)。当時は、彼女はまだ自分の父がスーパースターであることはおろか、父の名前がマイケルだったことすら知らなかった。「父の名前はただ"パパ"だと思っていたわ」と彼女は語る。「彼が誰であるか、本当に知らなかった。でも父は、私の世界そのものだった。そして私たちも、父にとって世界そのものだったのよ」
「いつでも好きなときにドライブに行ける、というような環境ではなかったわ」とエンシノの屋敷近くの暗い道端を歩きながら彼女は回想する。(中略)「けっこう普通の生活を送ってたんだから。毎日学校に行って、よい子にしてなくちゃいけなかったし。もしよい子でいられたら、2週間に1度とかそのくらい、映画館とか動物園とか、好きなところに連れて行ってもらえた。でももしよい子にしていなかったら、どこにも行けないの」。
2011年に出版された回顧録で、マイケルの兄ジャーメインはマイケルについて「父親とはどうあるべきかということの模範だった。彼は私たちの母親が注いでくれた愛を心に刻み込み、そして私たちの父親が与えることのできなかった(それは彼自身の責任ではないが)父親としての愛を、子どもたちに与えていた。マイケルは父と母のそれぞれの役割を1人でできるような存在だった」と書いている。
マイケルは子どもたちに普通の学校に行く選択肢も与えていた。自宅学習を選んだのは子どもたち自身だ。「家にいると時々ね、私が誰よりも愛している父が勉強中に入ってきて、"いいよ、もう今日は勉強は終わりだ"と言って、それから私たちは父と遊ぶの。私たちは"友だちなんかいらない。パパがいて、ディズニー・チャンネルがあるんだもの!"と思ってた」。彼女自身も、その点について「すごく変な子どもよね」と自覚していた。
彼女がソウルフードの作り方を学ぶとき、そこにいたのはほとんどの場合父だった。「父は素晴らしいコックだったの。父のフライドチキンは世界一よ。あと、さつまいものパイの作り方を教えてくれたわ」。キャサリーンおばあさんの感謝祭のために4つのパイを焼き、傍らでガンボも作りながらパリスはそう言った。(中略)
マイケルは自分が受け入れられるジャンルである限り、パリスをあらゆる音楽に触れさせた。「父がヴァン・ヘイレンと仕事をしていたから、私もヴァン・ヘイレンにハマった」と彼女は語る。「父がスラッシュと仕事をしたから、ガンズ・アンド・ローゼズを聞いた。チャイコフスキー、ドビュッシー、アース・ウィンド・アンド・ファイアー、ザ・テンプテーションズ、2パック、ランDMCも父が教えてくれたの」。
マイケルは広い心を持つよう、パリスにいつも言い聞かせていたという。(中略)「彼が最も重要視していたことは、教育だった。私たちを愛すること以外ではね」とパリスは語る。「しかも父は"父なるコロンバスがこの地にやって来た!"という感じじゃなく、"コロンバスは原住民を虐殺したクソ野郎だった"って感じだったの」。本当にそんな言い方をしたのか?と訊くと、「そういう言葉使いはよくしていたわ。海兵隊ぐらい汚いわよ」。しかしその一方で、彼は"とてもシャイであった"とも彼女は語った。
多くの人が自分の血統について疑っていることもパリスとプリンスはわかっていた(末っ子のブランケットは色黒だったため、それほど疑われることはなかった)。(中略)
パリスは、マイケル・ジャクソンが自分と血のつながった父親だと確信している。彼女はそのことを熱く信じており、その熱は筆者である私の心を動かし、そして説得力を持って迫るものだった。「マイケルは私の父よ」パリスは鋭い目つきで語った。「これからもずっと、私の父親。そうでなかったことは決してないし、そうでなくなることも絶対にない。彼をよく知る人たちは、私が彼から受け継いだものを持っていると言うわ。それは少し怖くもあるけど」。
「私は自分を黒人だと思ってる」。そう彼女は語り、そして「ある時、父は私の目を見て、そして私を指差して"君は黒人なんだ。自分のルーツに誇りを持ちなさい"って言ったの。だから私は"父がそう言うんだもの。父が嘘をつく理由なんてない"と思ってる。私はただ父に言われたことを信じているの。なぜなら私の知る限り、父が私に嘘をついたことなんてないから」。
「私のことを知らない人のほとんどは私が白人だと思うわ。色白だし、金髪にしているから特にそうね。フィンランドとかで生まれたように見えるかも」とパリスは認める。そして彼女は人種ミックスの子どもが自分のような容姿の特徴を持つことは別段珍しいことではないと指摘する。
(中略)世間が見ている父の姿が、自分が見ているものとは違うことにパリス・ジャクソンが気づいたのは、彼女が9歳くらいのときだった。「夜に父が私のところに来て涙を見せるの」、12月中旬にニューヨークのコーヒーショップで小さなスプーンをその手に持ちながら彼女は語り始める。そして、涙が彼女の目に浮かんできた。「想像してみてよ。両親が、実際にしていないことで世界から憎まれている悲しみで泣いているのよ。私は悲しくて、父にこんなことをする世界を憎み始めたわ。あの父の姿は、私にそうさせるのに十分だった。"どうしてみんなそんなに意地悪なの?"と思って・・・」と語り、そして言葉を詰まらせた。「すみません、感情的になってしまって」。
パリスとプリンスは、彼らの父親が受けた複数回にわたる子どもへの性的虐待疑惑が、事実無根であることを一切の疑いなく信じている。そして彼らは本当のマイケルを知る人物でもある。もう一度言うが、彼らの主張には非常に説得力がある。もし彼らが世界中の1人ひとりとこのことについて話すことができたなら、世界のマイケルへの見方は変わるはずだ。「寝る前に私たちに『A Light in the Attic』を読んでくれた父を知るのは、父の子どもである私たちだけなの」とパリスは語る。「他の誰も、父親としての彼を知る者はいない。もし仮に人々がその姿を知ったなら、父への見方は完全に、そして永遠に変わるわ」。(中略)
2005年、性的虐待をめぐる裁判でマイケルは最終的に無罪となったが、彼の社会的評価は傷つき、それは家庭生活にも影響することとなった。そして彼は、ネバーランドを永遠に去ることを決めた。(中略)
2009年からロンドンのO2アリーナで行われる予定だったカムバック公演に向けて、マイケルは準備を進めていた。「父は興奮した様子で私たちにそのことを語っていたわ」とパリスは回想する。「"そうさ、ロンドンで1年間ライブをやるんだ!"という感じだった。私たちもすごく嬉しかった。ロンドンで住む家だってもう用意してあったのよ」。しかしリハーサルが始まると、マイケルはひどく疲れていた様子だったという。「"昼寝をしたら?"と父に言ったわ」とパリスは語る。「疲れているように見えたから。私たちが学校にいると・・・つまり自宅1階のリビングルームだけれど、天井から埃が落ちてきて、床を鳴らす音が聞こえてくる。2階で父が練習をしていたの」と彼女は当時を思い出して語った。
パリスは、予定されていたTHIS IS IT公演のプロモーターであったAEGライブに対し、拭いきれない嫌悪感を抱いている。マイケルの死をめぐる不法死亡訴訟で陪審は"マイケル死亡の責任はマイケル本人にある"とするAEGの主張を認め、マイケルの遺族は敗訴した。「AEGライブのパフォーマーの扱いはおかしい」と彼女は主張する。「健康管理をろくにせず、死ぬまで働かせるのよ」(AEGの広報はこの発言に対するコメントを拒否している)。また彼女は、最近のジャスティン・ビーバーのツアーを見て「怖くなった」と語っている。「彼は疲れていて、パフォーマンスに熱が入っていないように見えた。チケットを見ると、AEGの名前が入っていた。そこで、父がいつも疲れていたのに寝ることができなかったことを思い出したの」。
またパリスは、マイケルに対する過失致死罪で有罪判決を受けたコンラッド・マレー医師にも非難の目を向ける。麻酔薬であるプロポフォールの投与に過度に頼った彼の処置がマイケルの死を招いたからだ。皮肉を込めた仕草をしながら彼を"ドクター"と呼ぶ彼女は、父の死について深い疑念を抱いていると語った。「父は自分を殺そうとしている人たちについて匂わせていたわ。ある時には"いつか彼らに殺される"と言っていたわ」。(中略)
父は殺されたのだ――パリスはそう確信している。「もちろんそうよ」と彼女は言う。「そんなの目に見えているじゃない。全ての出来事がそのことを物語ってる。こう言うとくだらない陰謀説やトンデモ論に聞こえるかもしれないけど、本当のファンや家族ならみんな知ってる。ハメられたのよ。最悪ね」。
しかし、誰がマイケル・ジャクソンの死を望んでいたのだろうか? この問いに対してパリスは数秒の沈黙をした後(おそらく特定の人物を挙げようとしたのだろう)、ただ「多くの人たち」とだけ答えた。パリスは復讐を、少なくとも公正な裁きを望んでいる。「当然よ」と、目を光らせながら彼女は言った。「絶対にそうする。でもこれはチェスのように戦略的に動かなければならないことなの。そして私は正しい手を打っていこうとしている。今言えることはそれだけ」。
マイケルは公の場で子どもたちに仮面を着用させていた。この子どもたちを守るための行動を、最初パリスは"ばかげている"と思ったが、後になってその意図を理解した。そしてこのことは、2009年7月7日、テレビ放映もされた父の公開追悼式で、いたいけな少女が大胆にマイクの前に立ち、「私が生まれたときから、パパは他の人が想像できないくらい最高の父親だった。そして今はただ、父を心から愛していることを伝えたい」と残したあのスピーチへとつながっていくのだ。
当時彼女は11歳だったが、自分のしていることの意味はわかっていた。「あの後、父を批判し、父の子育てを批判する人々がたくさんいることを知ったの。あの時はじめて私は公に父を弁護したわけだけど、絶対にあれを最後にはしないわ」と彼女は語る。一方プリンスにとってはあの時が、妹が「兄弟の誰よりも強い人間だった」ことを示した瞬間だった。(後略)】
とても長くなってしまいました~。
今回の騒動で改めて思ったのだけど、マイケル・ジャクソンは、やはり「数百年に1人」の偉大な人物なのです。
ですが、今回のような〝カネの亡者〟の他にも、彼は様々な問題を抱えていました。(他のこともマイケルに一切非はなく、みんな目的は彼のおカネなのです。。)
マイケルの3人の子どもたちは大変です。今回のことで、みんな傷ついているはず。。。
でも、悪は必ず駆逐される。そう信じて、ジャクソン家総出で乗り切るしかない☆
上記のインタビュー、父親としてのマイケルの一面が分かり、とてもとても興味深いよね。
深刻な話も出ているけど、これはファンにとっても大事なことだから。
ネガティブなことはなるべく記事にしたくないけど、今回のお話は高揚感もある。マイケルのプライベートも少し見ることができた☆
マイケルがきっと助けてくれると信じたい。
*2021年7月19日追加
上記のインタビューについて、パリスはあまり芳しくない評価をしていたようです。(というか、愕然としていたらしい) どの部分かは不明だけど、私からみても、記者はマイナスな印象を与える表現をそこかしこにしています。
このインタビューの冒頭、ある場所を見学する場面があったのだけど(この記事では略した)、パリスを〝変わった子〟と思わせる可能性があるかもしれない。プリンスにも似たようなことがあったはず。
が、パリスの言葉自体は興味深いことばかりで信頼できるし、ブログに乗せる価値は大だと思う。(追加ココマデ)
*〝マイケル・ジャクソンが他人に知られたくなかったこと〟(身体の状態)に関して、私は一切、記事にしません。
彼の死に関する裁判中、メディアはあることないこと報じたようですが、全てが「事実」なのかは永遠に謎です。たとえ身内の証言でも、本当のことかどうかは分からないのです。安易に信じないようにしましょう。
マイケル・ジャクソン本人が認めたこと以外は、全て信頼できない情報です。