旅に出たいが出られない時、適応機制の一法として「異国の時間」に身を置いてみると、精神衛生が改善される場合がある。
過日もそんなような訳で、都内のモスクを訪れた。
そこにあることは四半世紀も前から知ってはいたが、観光名所として名を聞くこともなく、やはり礼拝所であろうとの遠慮もあって、ついぞ足を踏み入れることなく今日に至っていた。
何の変哲もない住宅地に、イスタンブールの街角にでもそこだけスリップしたかのような、立派なミナレット(尖塔)とドームを持つ大層なモスクが建っていた。
違和感があってもよさそうなものだが、近隣住宅との過密度が思えばあちら風でもあり、見上げずに歩道を歩いている分には気づかず通り過ぎてしまうかもしれないほど溶け込んでいた。
「境内(?)」に入ると、空気はモスクのそれであった。
建築が空気を変えるのか、空間に集う人のベクトルを一にする営みの残滓であるのかは判らないが、この空気感は「異国の時間」の大事な要素だと思う。
この建物はトルコ政府の援助で2000年に建て替えられたとのことだったが、集まっている人の顔立ちは、インド系あり、中東系あり、アフリカ系ありで、施主が誰であるかを特段気にする風もなく、屈託なくバラエティーに富んでいる。
夕方の集団礼拝の時間はさすがに居合わせた皆が揃って祈ってはいたが、それ以外では、祈る者もあれば、その傍らでのんびり座り込んでいる者、何となく雑談をしている者など、礼拝もする集会所といった趣の、終始静謐で緩い空気が流れていた。
イスラム教では、祈りの姿を撮ることは一応タブーとされているらしい。
集団礼拝に遅れて来た若い日本人信徒が、入り口の脇で礼拝を眺めていた私の手のカメラを見咎め、すかさず「礼拝の最中はちょっと」と苦言を呈した。
既に礼拝の列にあった外国人信徒達は彼よりもずっと鷹揚で、「遠くからお祈りの邪魔をしなければいいんじゃないの」などと言い、実際に撮影する姿を見ても誰も気にも留めなかったのだが。
信徒のための場所で信徒の気分を害さないよう、カメラは素直にしまったものの、「異国の時間」は「日本の時間」へとたちまち引き戻されてしまった。
@Tokyo, Japan
Leitz Elmar f=3,5cm 1:3,5 (1938), Minolta CLE (1981) : #1, #4
Zeiss-Opton Sonnar 1:2 f=50mm T (1946-54), Contax IIa (1951) : #2, #3
過日もそんなような訳で、都内のモスクを訪れた。
そこにあることは四半世紀も前から知ってはいたが、観光名所として名を聞くこともなく、やはり礼拝所であろうとの遠慮もあって、ついぞ足を踏み入れることなく今日に至っていた。
何の変哲もない住宅地に、イスタンブールの街角にでもそこだけスリップしたかのような、立派なミナレット(尖塔)とドームを持つ大層なモスクが建っていた。
違和感があってもよさそうなものだが、近隣住宅との過密度が思えばあちら風でもあり、見上げずに歩道を歩いている分には気づかず通り過ぎてしまうかもしれないほど溶け込んでいた。
「境内(?)」に入ると、空気はモスクのそれであった。
建築が空気を変えるのか、空間に集う人のベクトルを一にする営みの残滓であるのかは判らないが、この空気感は「異国の時間」の大事な要素だと思う。
この建物はトルコ政府の援助で2000年に建て替えられたとのことだったが、集まっている人の顔立ちは、インド系あり、中東系あり、アフリカ系ありで、施主が誰であるかを特段気にする風もなく、屈託なくバラエティーに富んでいる。
夕方の集団礼拝の時間はさすがに居合わせた皆が揃って祈ってはいたが、それ以外では、祈る者もあれば、その傍らでのんびり座り込んでいる者、何となく雑談をしている者など、礼拝もする集会所といった趣の、終始静謐で緩い空気が流れていた。
イスラム教では、祈りの姿を撮ることは一応タブーとされているらしい。
集団礼拝に遅れて来た若い日本人信徒が、入り口の脇で礼拝を眺めていた私の手のカメラを見咎め、すかさず「礼拝の最中はちょっと」と苦言を呈した。
既に礼拝の列にあった外国人信徒達は彼よりもずっと鷹揚で、「遠くからお祈りの邪魔をしなければいいんじゃないの」などと言い、実際に撮影する姿を見ても誰も気にも留めなかったのだが。
信徒のための場所で信徒の気分を害さないよう、カメラは素直にしまったものの、「異国の時間」は「日本の時間」へとたちまち引き戻されてしまった。
@Tokyo, Japan
Leitz Elmar f=3,5cm 1:3,5 (1938), Minolta CLE (1981) : #1, #4
Zeiss-Opton Sonnar 1:2 f=50mm T (1946-54), Contax IIa (1951) : #2, #3