whitebleach's diary

旅と写真に憧れつつ

身一つの商売

2013-04-14 15:19:40 | 旅行


ベツレヘムで、キリストが生まれた厩(うまや)とされる洞窟上に建てられた「聖誕教会」を物見高く見物した帰り、道端の男から一杯のコーヒーを買った。

店構えもなく、下部の炭火から伸びる煙突の周りを覆うような構造のポットが1台と、古びたボストンバッグがひとつだけ。
声を掛けるでもなく、誰かと話すでもなく、黙って道行く人を眺めながら、たまに私のように立ち止まる客があると、透明プラスチック製の小ぶりな使い捨てカップをボストンバッグから出し、熱いコーヒーを注いで渡す。

「スッカー?(砂糖は?)」
「シュワイエ(少しね)」

ボストンバッグから、古びてシワシワになった家庭用ビニール袋を取り出し、中の白砂糖をスプーン1杯入れてくれた。

コーヒーは濃く、おいしかった。
隣国のレバノンでもそうだったが、公園やバス乗り場の近くなどに、同じようにポットひとつでお茶やコーヒーを売る人達がいた。
彼のように定位置で商売をする人もいれば、小ぶりのポットを片手に、他方の手で陶器のアラブ風コーヒーカップを重ねてカチカチ言わせながら、ベンチで寛ぐ人や雑踏の中に立つ人に売り歩く人もいる。
カフワ(コーヒー)やシャイ(お茶)はアラブ圏の人々の生活には欠かせないものだが、多少とも豊かな地域では少なくとも屋台の体裁であったり、より豊かな地域では屋内の小洒落た喫茶店であったりした。

近所の公園でゆったり時間を過ごすことなど絶えてなかった自分にとって、当初、こうしたポット片手の一杯売りは、「わざわざ喫茶店に行くほどではないけれど一寸欲しい時に手に入る、僅かなお金で生活に一寸した潤いができる気の利いたサービス」、「金銭で換算するフェーズを超えた生活の真の豊かさを知る人達の営み」とも感じられた。

それはそうなのだろうけれども、気づいてみるとそういう場所では、ベンチに腰掛けた男達の間を回る靴磨きの少年や、黒いビニールのコンビニ袋を片手にザカート(喜捨)を待つ老女がいたり、辻売りのカバブを焼いているグリルが、古いドラム缶を切り抜いた手製であったりした。

身一つでできる商売しかできないなかで、盗むこともせず、騙すこともせず、吹っかけるでもぼったくるでもなく、程度の差こそあれ正直を最後の拠り所として、日々の喜怒哀楽の中で生きる人々が、何だか懐かしく、嬉しかった。

件のコーヒー売りの男性。
去り際に「写真撮ってもいい?」と尋ねたら、「俺?!」と驚きながらも快諾してくれた。
現像から戻った写真を眺め、生活の厳しさを刻んだ顔に、僅かなはにかみと微笑みがあることが嬉しく、ほっとする一方、その眼差しに感じる彼我の距離感を拭うことはできそうになかった。


@Bethlehem, Palestinian Territory

Mamiya G 1:4 f=50mmL (1989), New Mamiya 6 MF