私たちは
自分を愛し他人を愛すること
自分を許し他人を許すこと
を学んでいるようです。
なぜかというと自分に戻るためです。
魂がそのような存在だからです。
ゴールは最初に示されているのです。
長い道のりだから少しづつ自分に戻って行くのです。
すべてを無条件に愛する存在
すべてを無条件に許している存在
魂とはそういう存在のようです。
成長とはそういう存在に到達することのようです。
前回に 死んでから正解がわかると申しましたが 生きている間にも それが魂だとわかっていたら魂を感じることが出来るでしょう。たとえば強烈な感動 強烈な喜びや感謝の心があふれるのを感じるとき。 そこに神聖な愛や真実や美を見るときもそうではないでしょうか。
なお 愛することと許すことは同じです。愛することは許すことであり 許すことは愛することです。でも愛にはいろんな形があり得るから 人間には愛とは何かがわからないときでも 許すということならわかりやすいといえる場合もあるでしょう。
あちらの世界は絶対世界だから愛のエネルギーしか存在しないので 自分がどんな存在なのかがわかりません。
そのために愛と 愛でないものの両方のエネルギーが存在する相対世界をこちらにわざわざ創り こちらに来て愛でないものを体験している。比較するものがあれば自分がどんな存在なのかがわかる。そういうことのようです。
ですから自分を愛し許すことを学ぶために 自分が愛でないものになる必要がありますが そのための主要な働きをする悪役が潜在意識の中のドラゴンです。(でも自分が成長すればドラゴンも変わるのです。)
私も自分の持つドラゴンを消そうとしましたがうまくいきませんでした。ドラゴンでもテロでも排除しようとするとうまくいきません。逆に強くなってしまいます。ただ許すしかないようです。許すことでドラゴンから自由になるのです。同時に成長もするようです。
私はこういうドラゴンを持っている。それでもかまわない。私はドラゴンではない別物だが 私の一部として認めよう。一緒に生きて行こうと決めます。排除しようとしません。
私は愛でないもの 善でないものをいっぱい持っています。
それが私です。それが私であると認めます。肯定します。否定しません。 許すことを学ぶためには 自分がまだ許せないものを持っているからこそ体験的に学べます。それを認めることが出発点です。
人間はドラゴンと潜在意識の影響で無意識に否定的な方向に反応してしまい 人を傷つけるようにできています。意識して一呼吸おいてから 言葉にしたり行動するとか 常に自分を監視するとかしない限り 人間には本来 悪を創り出す仕掛けが組み込まれているのです。
魂は善ですが 人間はそういう目的があるので 放っておくと善ではいられない。この世では正しく生きようとすると葛藤が起きストレスを生みやすいのではありませんか?
いわんや悪人こそ救われねばならない という教えの背景にはこういうことがあると私は理解しています。もちろんカルマの約束によって意図的にこちらで悪人になる場合も 大変多くあるわけです(たいていはテレビで報道されることになります)から それも含まれているはずです。
(続く)
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