一人はみんなのために みんなは一人のために の意味ですが・・・。
本当は皆が助け合い分かち合う世界を目指しています。そこでは「一人」の犠牲者も出ることがないのです。 多数の論理や数の論理などのために 少数も一人も放っておかれることはないのです。それではものごとが決まらない? 前に進まない? もしそう考えるならそれは私たちがまだ十分成長していない証拠です。ほかの選択肢が見えてこないからです。
こういう世界では例えば 自分のためだけでなく みんなの学びのために自ら志願して自分の命や たいせつなものを捨てる人たちがたくさんいるようです。
この前の東日本大震災でもたくさんの方々が命を捨てました。
阪神淡路大震災でもそうだし 熊本の地震や西日本の豪雨などで亡くなったりすべてを失ったりした人たちもそうでした。そういう人たちは運が悪い気の毒な人だったのでしょうか? とんでもない。
ですので私たちがすることは その人たちの尊い決意を受け継いで 少しでも自分が成長することなのです。
あの人たちは可哀そうだったとか悔しかっただろうなどと憐れんでばかりいるなら 亡くなられた人たちは残念に思うでしょう。
そして 人生に失敗は決してありません。
間違いということも 決してありません。
運不運もありません。
それは断言できます。
ということは私たちは すべからく前もって(自分が)敷いたレールの上を走っているだけということです。すべてが偶然だと勘違いしながら・・・。
起きる事柄の時期まで決まっているレールの上を走ってきたのです。
そして悔やんでいるのです。もし正しくやれば あるいは運が良ければこのような失敗や不運はせずに済んだのに・・・と。
ですので いかに世界が五里霧中のように見えても
ただ自分を信じて なにか今は知らない大きな世界があるということだけ信じて 前に進むだけ・・・です。
その中でちいさくてもできるだけ喜びをみつけながら 分かち合いながら生きること・・・それだけのようです。
人に優しく親切に 絆に感謝しながら生きることだと思います。
ただ 人生の間には人間の目でみたら悪いことも良くないことも起こり続けます。それは人生の間だけです。(しかも架空の幻想です。ヴァーチャルです。)
それは体験し学ぶためです。
もともと自分がそういう筋書きを体験することを選んで生まれてきた人生ではないですか。今はそれを思い出せない仕組みなだけですから。今は少々?理不尽に見えるだけです。
そうでないと学びにならないから。
実はその理不尽なことも悪いことも 私たちがもっと成長していく 結果 次第に減っていく(進化する)ようですが。
出来事は既に誰かが体験済みのことがほとんどのようですが それでも舞台背景を変えながら シチュエーションを変えながら体験していくようです。こんな状況になったらあなたはどうするか?
そんな感じでしょうか。
結果はすべてが大丈夫ということですが。
私たちが死ぬことはないし どんな筋書きの人生であれ 何度でも試すことが出来るからです。
(続く)
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