あべっちの思いをこめた雑記帳

鎌倉の町並みを行く

 だいぶ前のことだが、私が東慶寺へ着いた時には、その日が飛び石連休の真ん中のためか、どこも人で身動きもできないほどであった。そして久しぶりに昨日もその東慶寺を訪ねた。
 「縁切寺」の俗称で知られるここは、明治の後半まで尼寺だったので、訪れる人もその影響でか、相変わらず若い女性が多い。強いて変わったといえば、年々クローズアップされてきたということぐらいだろうか。ここ数年はコロナの影響で落ちこんでるとは思うけれど。

 この寺の初代住職は北条時宗夫人覚山志道尼で、五世の後醍醐帝皇女用堂尼のころからは「松が岡御所」とも称され、その後も代々名門出身者が住職を占めてきた。豊臣秀頼の子である天秀尼がここの住職となり、一角にお墓があることは、そのだいぶ昔に訪ねた時に初めて知った。天秀尼は、徳川秀忠の娘である千姫の子でもある。だが、この寺が一層有名になったのは、創建時から縁切り手法があったにもかかわらず、なんといっても江戸時代のそれである。

 封建時代には結婚すればいかなる理由があろうとも決して女の方からは離婚の請求はできなかった。耐えなければならぬという女の弱さを救おうと覚山尼が執権北条貞時に願い出、きめられた期間、規則通りに過ごせば離婚成立というこの寺法を制定したものの、なぜ江戸時代になってはじめて庶民にまで親しまれるようになったのかは定かではない。
 ただこうして寺の中に立っていると、当時の不遇な女子の救済の寺法は今の人たちのそれとは似ても似つかぬものなのに、眼前に多数の参拝者がいるという事実は少々奇妙な気がする。だがそういう昔の庶民の心というものが、明治以後150年しても今なお大切にされているとしたら、真にうれしいことである。これを歴史と呼ぶのだろうか。

 建長寺から天園を経由し瑞泉寺へ抜けるハイキングコースは実にいい。だいぶ前のその時には、反対から来る親子四人に会った時、そう思わざるをえなかった。 
 昨日も実はそのハイキングコースを目指していたのだが、正午ちょうどくらいから雨になり、不運にもあきらめざるをえなかった。しかたなく予定を変更し、建長寺から鶴岡八幡宮へと向かう。

 その散策の途中、さまざまなことを思ってみる。
 現代人とは歩くということをもうすっかり忘れきってしまったとばっかり思っていたのに、お寺が多い町でこんな身近な所に数キロメートルもの散歩道があるとは信じられないような面持ちで、頼朝がこの地になぜ鎌倉幕府というものを開いたのか、いろいろ思案の心を動かしてみた。

 この鎌倉は三方を山に、残る一方を相模灘に囲まれた絶好の場所ではあるが、それまで畿内のみだった中心地が一挙に東国の片田舎に移ったのである。康平六年(1063)には頼義が由比若宮を建立していたので、源氏と鎌倉との結びつきはそれ以前に違いないし、他にも若干推測はできるが、いずれにせよさほどのためらいもなしにこの地を選んだ源頼朝とはたいした男である。
 だがこうして若い人たちが、身近な散策コースを楽しんでいる、大切にしているということも、またすばらしいことではないか。

 文明が進み、交通が便利になればなるほど、私たちはとかく身近な所を忘れがち。
 遠方へ簡単には行くことのできなかった封建時代と、身近な所へ行く気になれない現代人とはどちらがいいかということは別にしても、木の葉や花である自然さんから見れば、現代の方に煙たい顔を向けるかもしれない。
 事実、ヨーロッパやアメリカにばかり気を取られている戦後は、たしかにそれらに近くはなってきた。ところが中国や韓国はどうだろうか。平安時代にはもうすでにその中国でさえ往来していたのである。近年、あまりにも隣国が遠くなりすぎた感は否めない。

 そんなことを考えているうちに足先はいつか鶴岡八幡宮の横まで来てしまった。あんまり都会人がひしめきあっているものだから、鎌倉宮を越え、瑞泉寺まで足を伸ばした。ほんとうは建長寺から天園を抜けて瑞泉寺までのコースのはずだったのだが。 

 まっすぐ由比ヶ浜の海岸を見に行き、途中まで段葛を利用しようとも思った。が、帰りにバスの車窓から見た、妻政子の安産を祈願して頼朝が作ったというこの参道は、旅の心を安らぐにはふさわしすぎた。
こういう歴史の副産物はいつまでも大切にしてほしいと何度思ったことであろうか。


                 「心に残る旅(24)鎌倉の町並みを行く」

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