日馬富士の暴行問題が世間を騒がせている…そもそも、連日のマスコミ報道を見るにつけ、「芸能マスコミ」と同じ動き方をしているなと感じますよ。
何で被害者側を叩くのかな…?
如何なる理由があるにせよ、「暴力」で相手を封じ込めるのは、断じていけないこと。
まして、横綱でしょう?
ここ何年かな…日本人力士はすっかりモンゴル勢の陰に隠れてしまっていて、何とも寂しい限り。
横綱って、力が強いだけじゃダメなんじゃなかったかな?
盛んに言われている、「横綱としての品格」。
この「品格」という言葉の持つ意味は、日本人であれば比較的理解しやすいと思う。
けれども、外国人力士、とりわけモンゴル力士にはなかなか理解しづらいのではないかと、今回の件でそのように感じているところ。
強い だけでは、ダメ なんですよ。
勝ちゃぁ、いいってもんじゃないんですよ。
じゃぁ、「品格」って何なのよって聞かれれば、おそらく「謙虚さ」という言葉がまず先に出てくるのではないかと思う。
日本古来からのことわざに、
実るほど頭を垂れる稲穂かな(実るほど頭が下がる稲穂かな)… という言葉があるんですね。
外国人力士はご存じかしら?
稲穂…稲の穂。
お米は稲穂が実ることによって収穫出来るわけですが、実れば実るほど、稲穂の先端は重くなっていく…そうすると、頭を垂れるようにしなだれていく姿。実っていればいるほどしなだれていく…お米が出来るまでには、稲だけじゃ育っていきません。
田、水、土、お日様、栄養…たくさんの要素が合わさって、初めて稲穂が実り、お米が出来ていく…ということは、これを人間に置き換えると、
自分ひとりだけで大きくなったわけじゃないんです。
自分ひとりだけで強くなったわけじゃないんです。
自分ひとりだけで成長しているわけじゃないんです。
必ず、陰で支えてくれる人たちや、協力してくれる人たち、(役職などに)引き上げてくれる人たち、努力を見てくれている人たち…たくさんの人たちと関わりながら、今の自分がある…はず…なんですよね。
勿論、自分だけで努力した部分もあるでしょう。
他人が関わらない部分での成長もあるでしょう。
でも…、必ず、何かの「助け」を得ながら私達は生きているんだと、私は思うんですね。
こうして、ブログを打ち込んでいるのも、「自分ひとりだけでは出来ない」ですもん、パソコンがなければね。
パソコンというアイテムの助けがあることによって、初めてブログを作成することが出来ている。
「助け」られているものって、必ず人間とは限りませんもん。
「物」にだって、助けられながら生活している…。
話が日常に逸れましたけど、
横綱もね、「勝てばかつほど」「強くなればなるほど」、謙虚でなくては…と、私は思います。
横綱になるのだって、自分ひとりの力だけで横綱になれたのではありません。
「認められて」やっと横綱になれたはずです。
横綱以外にも言えることではありますけど、力がつけばつくほど、強くなればなるほど、人は下手すると「傲慢」になっていきます。
ついつい、「自分ひとりで偉くなった」「自分ひとりで大きくなった」と錯覚してしまいがち。
何故、そう錯覚してしまうのか…?
それは、周囲に「イエスマン」が増えるためです。
注意をしてくれる人間、耳の痛い話をしてくれる人間…そういう人たちが、周囲に減ってしまうため。
何故、減ってしまうのか…偉くなればなるほど、出世すればするほど、「この人には文句言えない」という状況が嫌でも出来てしまうからなんですよね。
これはもうやむを得ないこと。
社長に注意する部下なんていませんでしょ?
だから、上に立つ人間ほど、トップにいく人間ほど、常に「謙虚」でいることが必要なんですよね、本来は。
「物言いが出来る雰囲気を自ら作る」ことが、上の立場には必要なことだと、私は思っています。
今回の日馬富士の暴行問題も、自らの心に常に「感謝」の気持ちがあれば、「謙虚な」気持ちがあれば、絶対起こらなかったと思います。
日馬富士だけではありません。
白鵬も他の力士たちも…。
かつて、高見山というハワイからやってきた力士がいました。
私の記憶では、テレビで外国人力士を見たのは、高見山が初めてでしたが、とても愛嬌のある力士でテレビCMに出るなど、とても多くの方に愛されたことを思い出します。
高見盛の師匠でもありましたね。
彼は横綱にこそなれなかったけれど、「心が優しく、頼もしい」力士でした。外国人であることから、差別や偏見にも苦しんだと聞きましたが、彼のような外国人力士は、今の各界にはいませんね…。
実るほど頭を垂れる稲穂かな…強いものこそ、謙虚であれ!
人気ブログランキング ←いつもありがとうございます。
何で被害者側を叩くのかな…?
如何なる理由があるにせよ、「暴力」で相手を封じ込めるのは、断じていけないこと。
まして、横綱でしょう?
ここ何年かな…日本人力士はすっかりモンゴル勢の陰に隠れてしまっていて、何とも寂しい限り。
横綱って、力が強いだけじゃダメなんじゃなかったかな?
盛んに言われている、「横綱としての品格」。
この「品格」という言葉の持つ意味は、日本人であれば比較的理解しやすいと思う。
けれども、外国人力士、とりわけモンゴル力士にはなかなか理解しづらいのではないかと、今回の件でそのように感じているところ。
強い だけでは、ダメ なんですよ。
勝ちゃぁ、いいってもんじゃないんですよ。
じゃぁ、「品格」って何なのよって聞かれれば、おそらく「謙虚さ」という言葉がまず先に出てくるのではないかと思う。
日本古来からのことわざに、
実るほど頭を垂れる稲穂かな(実るほど頭が下がる稲穂かな)… という言葉があるんですね。
外国人力士はご存じかしら?
稲穂…稲の穂。
お米は稲穂が実ることによって収穫出来るわけですが、実れば実るほど、稲穂の先端は重くなっていく…そうすると、頭を垂れるようにしなだれていく姿。実っていればいるほどしなだれていく…お米が出来るまでには、稲だけじゃ育っていきません。
田、水、土、お日様、栄養…たくさんの要素が合わさって、初めて稲穂が実り、お米が出来ていく…ということは、これを人間に置き換えると、
自分ひとりだけで大きくなったわけじゃないんです。
自分ひとりだけで強くなったわけじゃないんです。
自分ひとりだけで成長しているわけじゃないんです。
必ず、陰で支えてくれる人たちや、協力してくれる人たち、(役職などに)引き上げてくれる人たち、努力を見てくれている人たち…たくさんの人たちと関わりながら、今の自分がある…はず…なんですよね。
勿論、自分だけで努力した部分もあるでしょう。
他人が関わらない部分での成長もあるでしょう。
でも…、必ず、何かの「助け」を得ながら私達は生きているんだと、私は思うんですね。
こうして、ブログを打ち込んでいるのも、「自分ひとりだけでは出来ない」ですもん、パソコンがなければね。
パソコンというアイテムの助けがあることによって、初めてブログを作成することが出来ている。
「助け」られているものって、必ず人間とは限りませんもん。
「物」にだって、助けられながら生活している…。
話が日常に逸れましたけど、
横綱もね、「勝てばかつほど」「強くなればなるほど」、謙虚でなくては…と、私は思います。
横綱になるのだって、自分ひとりの力だけで横綱になれたのではありません。
「認められて」やっと横綱になれたはずです。
横綱以外にも言えることではありますけど、力がつけばつくほど、強くなればなるほど、人は下手すると「傲慢」になっていきます。
ついつい、「自分ひとりで偉くなった」「自分ひとりで大きくなった」と錯覚してしまいがち。
何故、そう錯覚してしまうのか…?
それは、周囲に「イエスマン」が増えるためです。
注意をしてくれる人間、耳の痛い話をしてくれる人間…そういう人たちが、周囲に減ってしまうため。
何故、減ってしまうのか…偉くなればなるほど、出世すればするほど、「この人には文句言えない」という状況が嫌でも出来てしまうからなんですよね。
これはもうやむを得ないこと。
社長に注意する部下なんていませんでしょ?
だから、上に立つ人間ほど、トップにいく人間ほど、常に「謙虚」でいることが必要なんですよね、本来は。
「物言いが出来る雰囲気を自ら作る」ことが、上の立場には必要なことだと、私は思っています。
今回の日馬富士の暴行問題も、自らの心に常に「感謝」の気持ちがあれば、「謙虚な」気持ちがあれば、絶対起こらなかったと思います。
日馬富士だけではありません。
白鵬も他の力士たちも…。
かつて、高見山というハワイからやってきた力士がいました。
私の記憶では、テレビで外国人力士を見たのは、高見山が初めてでしたが、とても愛嬌のある力士でテレビCMに出るなど、とても多くの方に愛されたことを思い出します。
高見盛の師匠でもありましたね。
彼は横綱にこそなれなかったけれど、「心が優しく、頼もしい」力士でした。外国人であることから、差別や偏見にも苦しんだと聞きましたが、彼のような外国人力士は、今の各界にはいませんね…。
実るほど頭を垂れる稲穂かな…強いものこそ、謙虚であれ!
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