11月9日Part4、ベルリンの壁崩壊メモ、後編。
(いつも読んで下さる方、ありがとうございます。そしていつも長々と申し訳ない。
すいませんが今日も長く、Part1、2が通常の日記、ベルリンの壁崩壊のメモ1件のみ、Part3、Part4<前編、後編>に分けて投稿させてもらっています)
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1989年 - ベルリンの壁崩壊: 東西ドイツの国境検問所で市民の通行が自由化。
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ベルリンの壁崩壊
1989年11月9日に、それまで東ドイツ市民の大量出国の事態にさらされていた
東ドイツ政府が、その対応策として旅行及び国外移住の大幅な規制緩和の政令を
「事実上の旅行自由化」と受け取れる表現で発表したことで、その日の夜にベルリン
の壁にベルリン市民が殺到し混乱の中で国境検問所が開放され、翌11月10日に
ベルリンの壁の撤去作業が始まった出来事である。
略称として壁崩壊(ドイツ語: Mauerfall)ともいう。
これにより、1961年8月13日のベルリンの壁着工から28年間にわたる、東西ベル
リンが遮断されてきた東西分断の歴史は終結した。
東欧革命を象徴する出来事であり、この事件を皮切りに東欧諸国では続々と共産党
政府が倒された。そして、翌1990年10月3日に、「ドイツ民主共和国に再設置され
た各州がドイツ連邦共和国に加盟する」という名目(実質的には編入)にて、東西ドイ
ツの統一がなされた。
<ここから後編>
国境検問所
東西ベルリン間の国境検問所は、ボルンホルム通り・ショセー通り・インヴァリーデン
通り・フリードリッヒ通り・ハインリッヒハイネ通り・オーバーバウム橋・ゾンネンアレー
の7カ所あったが、やがて検問所の前に市民が集まり、通過しようとする市民と政府
から何も指示されていない国境警備隊との間でこの記者会見でのシャボフスキーの
発表を巡りトラブルが起きた。
西側でも、「旅行が自由化される」というニュースに驚いた市民が殺到していた。
国境警備隊は指令を受け取っておらず、隊員は報道も知らなかったためにすぐに対応
はできなかった。当時、各検問所は保安上の理由(集団亡命の抑止)により保安所同
士の横の連絡はできないようになっており、業務上の連絡は必ず上部機関の指示に
従うことになっていたが、指示をすべき上部機関が内務省から何も指示が無く対応方
針が出せなかったため、各検問所は総体として何が起こっているのか全く把握できな
かった。
結局、現場の責任者の判断でそれぞれ独自に対応することになり、最終的になし崩し
的にゲートが解放されるに至った。
午後7時
記者会見の様子がテレビで放映されると間もなく、検問所付近に多くの東西ベルリン
市民が集まり始めた。
この時、ベルリン北部のボルンホルム通りの検問所のパスポート審査官のハラルト・
イエーガー司令官はシュタージにも所属していたことがあるが、たまたまこの日は朝
6時から勤務に入り、24時間の勤務体制で、夕方6時から検問所の近くの食堂で
夕食を食べていた時にシャボフスキーによる旅行及び国外移住(恒久的出国)の自由
化の発表を耳にして仰天した。
イエーガーはシャボフスキーの発言を聞いて急ぎ検問所に戻った。
イエーガーが戻った午後7時15分には、この時点で既に市民10人が集まっていた。
すぐに上官に電話で問合せると、その上官は「これまでの人生でこんな馬鹿な話は聞
いたことがない」と言い、「少し待て。何もしないで待て」との返事であった。
電話を終えて外へ検問所の前に行くと、50~100人に増えていた。
まだ午後7時30分を回った時点であり、まだ7カ所の国境検問所付近を合わせて
も数百人単位であった。
フリードリッヒ通りの通称チェックポイント・チャーリーの東側に勤務するギュンター・
モル司令官 は、夕方に勤務を終えて自宅に戻り、夕食を食べながらテレビでシャボフ
スキーの発表を聞いたが、冷静に考えて然るべき手順を踏んで法的に解決した後に
翌日か翌々日に指示があると思った。そして特に急ぐ必要はないと考えた。
7時30分に検問所からすぐ西側の喫茶店のウエートレスと男性1人が境界線を越え
て警備兵に「一緒に飲もう」と誘い、断ったので西へ戻ったと報告があった。
彼はまだ深刻な状況とは思われなかったのである。
一方、チェックポイント・チャーリーの西側の警備責任者のバーニー・ゴデック米軍
少佐は、勤務を終えてダーレム地区にある自宅で夕食中に、地元のメディアが検問
所に集まってきている、東側が国境を開くらしいと部下から電話で連絡を受け、上司
の政治・軍事担当顧問官のジョン・グレートハウス大佐と共に検問所に向かった。
イギリス軍憲兵隊のクリス・トフト軍曹(36歳)は、この時オリンピックスタジアムの英
軍兵舎の中央管制室にいたが、7時42分に上司のワトソン大佐から電話があり、
BBCワールドサービスが東側が国境を開くと報道しているとの連絡であった。
急ぎ通訳を使って東ベルリンの警察に問い合わせると「分からない」という返事だっ
たため、市当局に問い合わせると「夜半に開かれる」との返事があった。
トフトは西ベルリン駐在のイギリス憲兵隊全部隊に東ドイツ人の西ドイツへの渡航が
解除された旨通達した。そしてこの時にデスクの上で記録用紙として使っていた罫紙
に『1942(19時42分)ワトソン大佐から電話あり。BBCの報道で東ドイツ人の西へ
の渡航制限が解除されるとのこと。全部隊に通達。』と記した。
トフト軍曹は、その後この持ち場を離れず、無線から聞こえてくる声に耳そばだてて、
チェックポイント・チャーリーの動きを見ていた。
午後8時
ボルンホルム通りの検問所の外には午後8時には数百人に膨れ上がっていった。
この時に東側の多くの市民が見る西ドイツのテレビ局ARDのニュースで、国境が開か
れると報じたと伝えられた。イエーガーは再び上官に電話した。上官は新しい指示がな
いので群衆を帰らせた方がいいとの返事であった。
西側のテレビ局でこの時サッカーの試合を中継をしていた局があったが、この中継に
ニュース速報が入った。「壁が開き、数千人が検問所を目指して行進している。」との
報道であった。東でも西でも、人々が動き始めていた。
ボルンホルム通りの検問所は、ベルリンの中心に位置するチェックポイント・チャーリ
ーとは周囲の事情が違い、7つの検問所の中で最も北に位置して、広大な住宅地帯
からすぐに歩いて来られる場所であり、高いアパートの建物からは眼下に見下ろせ
る検問所であった。
午後8時30分を過ぎる頃には数百人が数千人に増大していた。
警察官が来て市民に立ち去るように求め、まず警察署に行って海外旅行に必要な書
類を申請するように説明した。一部の市民は言われたとおりに警察署に出向いたが、
警察署側も政令に基づいた対応の準備ができておらず、窓口で要領を得ない返事し
かできなかったため、市民は立腹して検問所に戻ってきた。
イエーガーはほぼ20分おきに上官に電話して指示を仰いだが返事は同じで「新しい
指示はない。じっと待機していろ」であった。
一方、ベルリン市の中央部にあるチェックポイント・チャーリーでは地下鉄の駅に近い
ため群衆が続々と集まっていた。但し、これは西ベルリンの市民であり、ここでは東側
よりも西側の市民が多数押しかけて、ボルンホルム通りの検問所とは違い、西側市民
が境界線を越えようとしたりした。午後8時に検問所の東側出入り口の前には数人が
立っていた。
この検問所は西側の軍関係者がノーチェックで通過できるただ一つの検問所であり、
また西ベルリン駐在の米英仏の3ヵ国の軍は4ヵ国協定で東ベルリンへのパトロール
が認められており(フラッグパトロール)、この夜もアメリカ軍将校は事態把握のため東
ベルリンにチェックポイント・チャーリーを通って巡回していた。
したがって東側市民のこの一帯への立ち入り規制は厳しく、無断で少し入っただけで
「国境地帯への不法侵入」として刑事犯罪に問われかねない「外国人専用」の検問
所であった。そのため東側出入り口付近は数人程度であったが、監視塔からは見え
ないが、脇道や路地に次第に集まり、既に数百人が検問所の遠くで待機していた。
そこからは恐怖のためそれ以上近づこうとはしなかった。
この間にモルは国境警備兵60人の追加を本部に自宅から要請していた。
そして間もなく追加の警備兵が到着したが彼らが武装していることに、西側から監視
していたグレートハウス大佐は何があるのか見当もつかず状況が悪化する可能性
があると感じていた。
午後9時
ボルンホルム通りの検問所では、午後9時を過ぎた頃には数千人が数万人になった。
車列の最後尾は検問所から数百メートル離れた幹線道路シェーンハウザー・アレー
に達し、その通りに至る脇道も車がぎっしり詰まっていた。イエーガーは16、17人の
警備体制では無理と判断して応援の人員を求め、50人が追加された。
多数の群衆が押し寄せてきたことで国境警備隊員は全く不意打ちをくらい、数時間の
間に突然戒厳令下にいる感じになった。「シャボフスキーが言ったのだから」と詰め寄
る群衆に規則ではビザとパスポートが要るのだから出直すように言ったが、検問所に
集まってきた市民は「ゲートを開けろ、ゲートを開けろ、壁を撤去しろ」と叫びだした。
ようやく上官から、「大声を上げる市民から国外退去させろ」として、身分証明書の写真
に特殊印を押印して通過させる命令が下された。この押印によって東ドイツの市民権が
剥奪され、いったん出国したら二度と再入国できない措置であったが、この特殊印が身
分証明書の無効を示すことを市民は知らなかった。
またイエーガーは通行を許した者のリストを保管しておくことも命じられた。
午後9時20分ごろ、イエーガーはパスポート審査所3カ所に再開を命じた。
待っていた市民はわれ先に窓口に殺到し、一列に並んで押印を受け、検問所を出た。
この間に250~300人を通過させたが、さらにその背後には数千人の殺気立った市
民が検問所を圧迫していた。
(なお直後の検問所完全開放に伴い特殊印のチェックを取りやめたため、このとき身
分証明書に特殊印が押された市民もそのまま東ベルリンに戻ることができた)
チェックポイント・チャーリーの東側の警備責任者であるギュンター・モル司令官はま
だ自宅にいた。しかし9時30分頃に再び検問所から電話があり、西側に100人ほ
ど集まって警備兵に東側の市民を通してやれと懇願しているとの報告であった。
モルは検問所に戻ることとした。
そして戻る途中に検問所に着く手前で、東ドイツの国民車であるトラバントやヴァルト
ブルクの車がぎっしり検問所まで並んでいるのを見て驚いた。脇道や路地でじっとし
ていた人々がやがて検問所の前に現れてきた。
午後10時
ギュンター・モル司令官は10時過ぎにチェックポイント・チャーリーに戻ってきた。
モルはまず警備兵3~4人を伴って西側に行き、集まっていた西側市民250人ほど
の人々に「新しい規則はまだ存在しない」と説明した。
「反対側では地下鉄の駅から人がどんどん集まっていた。私は予備兵を使い群衆を
押し戻させた。」
皮肉にもチェックポイント・チャーリーでは東側の警備担当者が西側の市民の越境に
神経を尖らせていたのだった。それから監視塔に戻り国境警備隊本部にいる上官に
電話して「新しい規則」について尋ねた。しかし返事は「無い」であった。
そして東側の人数も次第に膨れ上がった。
さして多くはない国境警備隊では太刀打ちできなかった。
モルは何度も司令部に電話したが、現場に居ない上官は待機命令を出すだけで、
責任逃れに終始したため責任を押しつけられた現場の警備隊は板挟みに陥り、
対応に困り果てた。事態収拾の策は無かった。
モルはこの時点で東側の群衆を70~100人と見積もった。
アメリカ軍は西側に集まった西ベルリン市民を2000人と見積もった。
グレートハウス大佐は東側で何が起こっているのか情報収集するために、車を出
して東側に入った。そして30分間の東側巡回を終えて西側に戻ってきた。
アメリカ軍の監視小屋にアメリカ本国のテレビやラジオ局及びカナダやオーストラ
リアからの取材の電話がひっきりなしに掛かってきた。
ゴデック少佐は、検問所付近で雰囲気が最悪となり国境警備兵と揉み合いになる
のではないか、群衆が東から西へ越境を試みた場合に検問所を閉鎖するのでは
ないか、とこの事態を憂慮し始めた。閉鎖という事態になればそれは明らかな4ヵ
国協定違反であり、ゴデックはソ連軍の士官を探した。
10時頃にチェックポイント・チャーリーの西側では西ベルリン市民60~70人が検
問所の前の白線を超えて前に進んだ。これは明確に「東側への侵入」であり、1961
年10月22日の「チェックポイント・チャーリーの対決」ではこの白線を超えたことで
揉めた歴史があった。
住宅地の近くであったボルンホルム通りと違い、チェックポイント・チャーリーではむ
しろ西側の住民の方が動きが活発であった。そして10時35分にも約100人が白
線を超えたが、警備兵に押し戻された。
ボルンホルム通りの検問所でイエーガーは本部に電話で全員の通過許可の要請を
出した。しかし一向に埒が明かない態度に業を煮やし、「信じていただけないなら、
この受話器を窓から外に出しますから、騒ぎをご自分でお聞きください。」と言って、
窓から外に受話器を出した。再び受話器を耳に当てるとすでに切れていた。
チェックポイント・チャーリーの東側ではモル司令官が検問所の前に来て、群衆をな
だめようとした。午後10時30分でこの時に東側の出入り口には東側市民が2000
~3000人に膨れ上がっていた。モルは後に「こんな状態はいつまでも続かない。
必ず何かが起こる。もう群衆を抑えきれない。そんなことは不可能だ。」と思ったと
語っている。
実際、警備隊の隊員は壁の手前まで後退し、群衆の前から引き下がっていた。
これを見てアメリカ軍のゴデック少佐は驚いた。それまで国境警備隊は群衆に向か
っていったもので引き下がったりはしなかったのだ。
この時に西側からアメリカ軍の軍曹が東側へパトロールに向かい、東側市民が黙々
と待っていて検問所に足を踏み入れていない光景を目にした。またこの時に逆に西
側にパトロールに行ったソ連軍の軍用車が東側に戻ってきた際に、東ベルリン市民
がソ連車を揺さぶっているところを目撃した。西側の軍関係者はこれはかなり異常
な状態であることを感じていた。
そして午後11時頃に西側の市民が国境警備兵の制止を無視して、一塊になって
壁に上り始めた。
国境ゲートの開放
午後10時30分頃、ボルンホルム通りの検問所には2万を超える群衆が詰めかけ
ていた。イエーガーは、何をしたらいいのか確信が持てなかった。
ここまでに検問所の中で
「我々はどうすべきか討論を続けていた。」
「状況は緊迫していた。我々はにっちもさっちも行かなかった。流血沙汰を避けること
ばかりを考えていた」
そしてもう他に選択肢はないと考えた。
しかし何度も上官に指令を仰いだが「待て」と言われるばかりであった。
再び電話して「もう全員を通行させなければなりません」と言うと上官は「指示は分か
っているだろう。言われたことだけをすればいい」と言った。興奮状態下での市民の
暴走や圧死による群集事故の発生を恐れたイエーガーは上官に「これ以上検問所
を維持することはできない」と伝え、彼は「もう持ちこたえられない。検問所を解放しな
ければならない。牽制をやめ、こちらへの通行を許可する。」として「全てを開けろ」と
命令した。午後10時45分だった。
ほぼ同時にゾンネンアレーとインヴァリーデン通りの検問所も開かれ始めた。
こうして、ついに東西ベルリンの国境は開放され、ベルリンの壁はここにおいて政治
的意味で崩壊した。
オリンピックスタジアムの英軍兵舎の中央管制室にいるイギリス軍憲兵隊のクリス・ト
フト軍曹は、パトロール中のジープから聞こえてくる興奮した様子に、彼自信も興奮を
感じていた。罫紙にこう記した。
『2325(23時25分)、検問所の東側に大集団が、西側も集団が形成されつつある』
11時35分にハインリッヒ・ハイネ通りの検問所が開放され、11時40分にオーバー
バウムとショセー通りの検問所が開放され、そしてほぼ12時の日付が変わる頃にチ
ェックポイント・チャーリーでも、ギュンター・モル司令官が同じ決断を下し、監視塔から
窓口のパスポート審査官のところへ行き、シュタージの最も地位の高い将校に「私は
境界を開放するつもりです」と伝えた。
パスポート審査官は「分かりました」とそれだけ言った。
モルは歩行者用ゲートまで行き、「開けろ」と命じた。
アメリカ軍のゴデック大佐は西側から注視しながら東側の道路から群衆が近づき、検
問所の東側ゲートを通過し税関エリアに入ったことをこの時に確認した。
イギリス軍憲兵隊のクリス・トフト軍曹は無線機から聞こえてくる音声でこう記した。
『2359(23時59分)検問所で東ドイツ人が小集団を形成。東ドイツ国境警備兵が
約20人いる。』[122]。
11月10日午前0時02分頃に東側の警察が全検問所の開放を発表、全ての国境
警備隊員1万2000名に撤収命令が下された。この夜はお祭り騒ぎとなった。
午前0時15分、東ドイツの青年グループが西側の人々と合流してブランデンブルク
門の前の壁に上って一緒に踊った。これより先に西ベルリン市民数十人が上り東側
警備兵をからかい始めていた。
イギリス軍のクリス・トフト軍曹は、無線機から音声が流れて、彼はこう記した。
『0028(午前0時28分)、東ドイツ人が西側に越境しつつある』。
『0050(午前0時50分) チェックポイント・チャーリーにて車両は通行不能』。
政府関係者の動き
- クレンツ社会主義統一党書記長・国家評議会議長
クレンツ書記長は党本部の執務室にいた。
ここで市内7カ所ある国境検問所すべてが群衆に囲まれているという報告を受けた。
クレンツはこの群衆を押しとどめるのはもはや無理であると感じていた。
- シャボフスキー社会主義統一党中央委員会政治局員・
党ベルリン地区委員会第一書記
シャボフスキーは記者会見後にベルリン郊外のヴァンドリッツにいた。
午後9時にベルリン地区指導部の幹部から電話を受けて、まだ国境検問所が開か
れていないことを聞かされて、急ぎボルンホルム通りへ車で向かった。
しかし通りが車で溢れかえって検問所に着くことができず、代わりにハインリッヒ・ハ
イネ通りに向かった。
シャボフスキーが検問所に到着した時には、すでに国境ゲートが開いた後だった。
国境検問所の混乱で現場指揮官から内務省に電話連絡し、組織の幹部が政治局
のメンバーに連絡を試みたが誰とも連絡がつかなかった。ディッケル内相は、これ
までの方針に合致しない新しい指令を独断で出すことは考えていなかった。
そしてその新規則の草案を作成し施行する責任者であった出入国管理局の局長は
この夜に劇場に行って、午後10時30分頃に自宅に戻り、国境検問所が一触即発
の事態になっていることを初めて知って、あちこちに電話を掛けたが、やはり連絡が
つかなかった。
郊外に行っていたシャボフスキーも検問所に急ぎ向かったがこの間にクレンツとの
連絡は取れていなかった。中央委員・執行部のメンバーが大幅に交代した直後で、
国内の体制も弱体化していた。
- コール首相(西ドイツ)
コール首相はこの時、ポーランドのワルシャワを訪問していて、マゾビエツキ首相と
自主管理労組「連帯」のワレサ議長と会談した後に、東西ベルリンの境界が開放さ
れるとの一報に接して、ヤルゼルスキ大統領との会談を急遽キャンセルして、同行
していたハンス・ディートリヒ・ゲンシャー外相をワルシャワに残し、いったんハンブル
クへ西ドイツ連邦軍機で飛び、ここで急遽用意されたアメリカ空軍の小型機で西ベル
リンに入った。
東西ドイツが統一される翌1990年まで、米英仏の共同管理下にあった西ベルリン
には西ドイツの民間機でさえ入れなかったのである。コール首相は翌10日朝に西
ベルリンに入った。
- モンパー西ベルリン市長(西ドイツ)
ヴァルター・モンパー市長は、国境開放後にインヴァリーデン通りに立ち、感激にむせ
ぶ多数の市民にマイクで挨拶し、市長自身も興奮して「我々は今、世界で一番幸せな
民族だ」と叫んだ。
- ブラント社会民主党名誉党首(西ドイツ)
壁が建設された1961年当時の西ベルリン市長で、後に西ドイツ首相となり、在任中
に東方外交を展開して東西の緊張緩和に貢献したヴィリー・ブラントは、この時は西
ベルリンには住まずウンケル市に在住でこの年に76歳となった。
そしてこの日に新築の家に引っ越し、疲労困憊の体で早めに床に就いた。翌日の早
朝に電話で事態を知り、急ぎイギリスの軍用機に乗って西ベルリンに向かった。
- ゴルバチョフ書記長(ソビエト連邦)
ゴルバチョフ書記長は、翌日の朝まで何も知らされていなかった。
在ベルリンソ連大使のコチェマソフにも、この夜の記者発表の内容は事前に知らされ
ていない。コチェマソフ大使は記者会見の内容を知ってから急ぎゴルバチョフとシェワ
ルナゼ外相に電話をかけたが二人とも忙しいとの返事であったという。
つい1週間前にクレンツがモスクワに訪問しており、その際のゴルバチョフとの会談で
この問題を討議したか、或いは直通回線で話し合ったのだと大使は理解して、ベルリ
ンでの事態の推移をテレビでただ眺めていただけで誰もモスクワに伝えていなかった。
10日午前5時(モスクワ時間7時)に本省の当局者から「そっちの壁で何が起きたん
だ」との電話で初めて伝えた。ゴルバチョフは、このニュースを初めて知らされた時、
驚くほど落ち着いていた、と側近は語っている。
西ドイツ国会での国歌斉唱
西ドイツの首都ボンでは、この夜はドイツ連邦議会が結社振興法に関する定例審議
の最中であった。午後8時20分に議員にこのニュースが伝わると審議は中断され
た。このニュースに接したザイター首相府長官はワルシャワを訪問中のコール首相
に急いで電話を入れた。
8時46分に本会議が再開されて、首相府・社会民主党・キリスト教民主(社会)同盟
・緑の党・自由民主党の各党が次々と演壇に立って発言し、特に最後の自由民主党
のミシュニック議員団長は「今日という日は大きな希望の日であり、東ドイツの人々に
とっては喜びの日である。」と語った。
そしてミシュニックの発言が終わるとキリスト教民主(社会)同盟の何人かの議員が
突然立ち上がり、「ドイツの祖国に統一、権利、自由を」というドイツ国歌の三番を
歌い始め、やがて他の会派の議員も歌い始めた。
議事録には「出席者は立ち上がり、国歌を歌う」とあった。
突然の信じられない一報に泡を食った議員たちは思いおもいの音程で唄った。
壁の崩壊
本来の政令はあくまでも「旅行許可の規制緩和」がその内容であって、東ベルリン
から西ベルリンに行くには正規の許可証が必要であった。東ドイツ国営テレビは繰
り返し「旅行には申請が必要です」と放送していたが、それを顧みる者はいなかった。
混乱の中で東側、西側の検問所ともに許可証の所持は全く確認されることがなかっ
たため、許可証を持たない東ドイツ市民は歓喜の中、大量に徒歩や東ドイツの国民
車であるトラバント、ヴァルトブルクなどで西ベルリンに雪崩れ込んだ。
西ベルリンの市民も騒ぎを聞いて歴史的瞬間を見ようとゲート付近に集まっており、
祝いの花や酒を片手に抱き合ったり、一緒に踊ったりあり合わせの紙吹雪をまき散
らしたり、壁の周辺で歓迎の歌を歌うなど東ベルリン群衆を西ベルリン群衆が歓迎
する様子が各所でみられた。
またアメリカやイギリスのみならず、世界各国から集まったテレビカメラがこの状況
を「ニュース速報」で世界中に伝えた。
この大騒ぎはそれから三日三晩続いた。
壁の撤去
ベルリンの壁は、「冷戦」「越えられない物」「変えられない物」の象徴だった。
それが数時間後の11月10日未明になると、どこからともなくハンマーやつるはし、
ショベルカーが持ち出され、「ベルリン市民」はそれらで自主的に壁の破壊を始めた。
それらは部分的ではあったが、方々で勝手に破壊されていった。
こうして1961年8月13日に建設が始まった「ベルリンの壁」は、建設開始から
28年後の1989年11月10日、ついに一部ではあるが破壊された。
壁は東側によって建設された東側の「所有物」であり、東側からは壁を壊す許可は
一切出されていない。むしろ11日には倒された壁を元の通り立て戻す作業を国境
警備隊が行っていた。しかし数日後からは東側によって、重機などを用いて正式に
壁の撤去作業が始まり、東西通行の自由の便宜が計られるようになった。
それは全ての撤去ではなく、正式に解体作業が始まったのは翌年1990年6月
13日からである。
国境の撤去
この後東西ベルリンの境界だけでなく、東ドイツと西ドイツの間の壁や有刺鉄線で
閉ざされた国境も開放されることとなった。世界各国で高い評価を受けるポルシェ
やBMW、メルセデス・ベンツやフォルクスワーゲンを自国に擁する西ドイツ市民か
ら見ると、時代遅れな東ドイツ製のトラバントやヴァルトブルクに乗った東ドイツ市
民が相次いで国境を越え西ドイツに入ってきた。
西ドイツ国民は国境のゲート付近で彼らを拍手と歓声で迎え、中には彼ら一人一
人に花束をプレゼントする者まで現れた。こうした国境線にも越境を阻止する壁や
有刺鉄線などが張られていたが、これらも間もなく壁と同じく東西ドイツの軍や警官
の手によって速やかに撤去された。
東ドイツ国民が乗っていたトラバントは、それから長くの間東西ドイツ融合の象徴と
して扱われることとなった。
壁崩壊の影響
東ドイツの崩壊
1989年11月9日のベルリンの壁崩壊は、たんに国境の開放に留まらず、東ドイツ
という社会主義統一党体制の終焉を意味していた。
11月13日、ハンス・モドロウ内閣が発足した。
モドロウは政治・経済の改革を表明し、23日には社会主義統一党がホーネッカーの
不正調査の開始、在野勢力への円卓会議開催の呼びかけ、憲法第1条に定められ
ている「党による国家の指導」条項の削除を表明し、一党独裁制を放棄した。
(12月1日に憲法改正)
12月3日、社会主義統一党は緊急中央委員会総会を開催し、クレンツ以下政治局
員・中央委員は自己批判の声明を採択して全員辞任し、ホーネッカー、シュトフ、
エーリッヒ・ミールケ(前国家保安相)らは党を除名された。
クレンツは6日に国家評議会議長も辞任し、わずか2か月足らずでクレンツ政
権は終わった。
12月8-9日に開かれた社会主義統一党の党大会は、党名を社会主義統一・
民主社会党(SED-PDS)に改名し、1990年1月にはクレンツやシャボフスキー
も党から追放された。
こうして社会主義統一党の一党独裁制は崩壊し、モドロウは政治・経済の改革を
表明すると同時に早急な東西ドイツ統一を否定し、条約共同体による国家連合を
提唱した。しかし、壁の崩壊後1日約2,000人の東ドイツ国民が西へ流出し、東
ドイツマルクの価値は10分の1に暴落し、元々疲弊していた東ドイツ経済は崩
壊していった。
12月、モドロウはコールに対し150億ドイツマルクの支援を要請したが、コールは
これを拒否した。また、知識人たちは「民主的な社会主義国家」としての存続を模索
していたが、民主化の過程で明るみに出たホーネッカーら社会主義統一党の旧幹
部達の不正や贅沢行為に一般労働者たちは怒り、社会主義そのものに対して否定
的になっていった。
軍や警察の機能は停止し、国民を抑圧していた国家保安省の出先機関が群衆に
襲撃されるようになっても、東ドイツ政府は何の手を打つこともできなかった。
1990年初頭には市民の70%が東ドイツ国家の存続を望んでいたが、ライプツィヒ
の月曜デモでは「我々は一つの民族だ(Wir sind ein Volk)」と言う声が挙がるよう
になり、2月になると東ドイツが自力ではもう長く存続できないと認識されるように
なった。
結局、東ドイツの旧政権幹部たちが恐れていたように、「社会主義のイデオロギー」
が崩壊した東ドイツは国家として存続できなくなり、崩壊していったのである。
東西ドイツ統一
ベルリンの壁崩壊に対して、ソビエト連邦、アメリカ合衆国、東ヨーロッパなどから祝辞
を送られ、そして壁崩壊時の混乱と不手際、西側への流出の増大で経済状況が逼迫
し、急速に弱体化した東ドイツが、東西ドイツの統一に向けて動き始めた。
それは1945年5月8日のソビエト連邦とイギリス、アメリカ、フランスによるドイツ分
断以降、ドイツ人にとっては悲願であった。
フランス大統領フランソワ・ミッテランは、ベルリンの壁崩壊に反対していたイギリス首
相マーガレット・サッチャーに、統一ドイツはアドルフ・ヒトラーよりも広大な領土を手に
入れるであろう、そしてその結果にヨーロッパは耐えなければならないことになる
と語った。
ソビエト連邦の最高指導者であったゴルバチョフは、東西ドイツ統一には時間がかかる
と想定していた上に、東ドイツが北大西洋条約機構(NATO)に参加することを恐れて
いた。アメリカ合衆国の大統領であったジョージ・H・W・ブッシュ(父ブッシュ)も、統一が
それほど早い時期に実現するとは考えていなかった。
西ドイツ首相のコールですら、早急な統一には無理が生じると考えていた。
東ドイツのモドロウ政権は円卓会議を開き、自由選挙の実施、新国家のための新憲法
草案の作成まで決定していた。しかしながら1990年3月、東ドイツにおいて最初で最
後となる自由選挙が行われ、西ドイツのコール首相が肩入れした速やかに東西統一
を求めるキリスト教民主同盟を中心とした勢力が国民の支持を受けて勝利すると、
それまでのSED政権が主張していた東西の対等な合併ではなく、西ドイツ(ドイツ
連邦共和国)が東ドイツ(ドイツ民主共和国)を編入する方式(東ドイツの5州を復活
し、それを自発的にドイツ連邦共和国に加入させる)で統一が果たされることに決定
した。
こうして東西ドイツの統一は、ソ連、ヨーロッパ諸国、アメリカ、そして西ドイツ首脳が
考えていたよりもはるかに速いスピードで進められた。この驚異的なスピードで進ん
だドイツ再統一の原動力は、ベルリンの壁が崩壊した事によって生み出された「歓
喜」と「感動」、そして東ドイツの国家としての崩壊であった。
結局、ベルリンの壁崩壊から満1年も経たない1990年10月3日、悲願の東西ド
イツの統一が実現した。10月3日の統一式典では、ベルリンの旧帝国議会議事堂
に「黒・紅・金の三色旗」が揚げられ、ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンの交響曲
第9番「合唱付き」が演奏された。
しかし、
この「感動」と「歓喜」の情熱の渦はコールが想定したとおりの弊害をもたらした。
東ドイツでは1989年11月10日以後、自分達は2つに分裂したうちの片方である
「東ドイツ国民」ではなく統一された「ドイツ国民」であるという意識が大きくなっていった。
これが早急なドイツ統一を支持する背景となった。
統一後の経済的な不安が想定されて然るべきであるが、壁の崩壊直後に西ドイツ政
府が西ドイツを訪問する東ドイツ市民に対して渡した一時金はこの不安をかき消す事
を助長した。
ドイツの再統一は、東ドイツ市民を無条件で裕福にするかのような幻想を生み出した。
結局「ドイツ再統一」のスピードが余りにも速すぎたことは、その後の経済的混乱によ
って実証される事になった。
世界屈指の経済大国であった旧西ドイツと旧東ドイツの経済格差は一時的な幻想で
は覆い隠せないほど歴然たるものが存在した。現在でも東西の所得格差は残された
ままである。また旧東ドイツでは資本主義に適応できなかった旧国営企業の倒産に
よって失業者が増加し、旧西ドイツでは旧東ドイツへの投資コストなどが足かせとな
って景気の低迷を招いた。
このため東西双方で市民の間に不満が高まることになった。
冷戦終結
ゴルバチョフは従来から冷戦の緊張関係を緩和させる新思考外交を展開していたが、
ドイツの東西分裂とベルリンの壁の存在は、冷戦の代名詞でもあり、いくら緊張緩和
といってもベルリン問題を解消しない限り「冷戦の終結」とはいえない状況であった。
ところが、ベルリンの壁が崩壊したことで、東西ドイツの統一に一応の目処が立った。
壁崩壊から1か月後の1989年12月3日、アメリカの父ブッシュ大統領とソ連のゴ
ルバチョフの両首脳がマルタ島で会談し、冷戦の終結を宣言した。
東欧全域への民主化革命の波及[編集]
ベルリンの壁崩壊は、既に民主化を果たしていたポーランドやハンガリーやブルガリア
のみならず、東ヨーロッパ全域に波及した。ベルリンの壁崩壊の同日、ブルガリア人民
共和国でトドル・ジフコフがブルガリア共産党書記長を辞任し、その後国家評議会議長
の職も辞した。11月17日には、チェコスロバキアでビロード革命が発生し、ポーラン
ドのワルシャワではチェーカー(KGBの前身)の設立者フェリックス・ジェルジンスキ
ーの銅像が三つ裂きにされて撤去された。
そして、マルタ会談の直後の12月16日にはルーマニア革命 (1989年)が発生した。
また、東欧同様、ソ連の衛星国であったモンゴルでも、壁崩壊後の一ヵ月後の12月
10日、サンジャースレンギーン・ゾリクを中心とする民主化デモが発生した。
1990年にかけて民主化運動は進展し、モンゴル人民革命党の一党独裁体制が崩壊
し新憲法制定、複数政党制の導入が実現した。
そして、ベルリンの壁崩壊から2年後の1991年8月20日にはバルト三国が独立し、
1991年12月25日には共産主義の元祖であったソビエト連邦自身まで崩壊した。
ベルリンの壁のその後
壁の倒壊後、壁自体が変貌した。
破壊された壁の断片が盛んに取引され始め、東ドイツの末期の最大の輸出ヒット商品
となった。ハンマーと鑿で東ドイツ政府が所有する建造物に叩きつけて破片を持ち去る
人が後を絶たず、東ドイツは壁は民主共和国の人民財産であるとして無秩序な壁の破
片の売り出しの阻止に動いた。
そして民主共和国の貿易商社に壁の商品化を委任し、真贋証明書を発行して売り
出し、その販売利益で国の健康保険制度を立て直す予定をしたが、やがて国自体
が消滅した。
それでも60トンの「ベルリンの壁のパーツ」が海路でアメリカに運ばれ、ボストンとシカ
ゴのラジオ局が「自由の石塊」として破格の安値30ドルで 売り出した。
多数の西ドイツ人が数千ドイツマルクで壁の一区画をそっくり買い取った。
ロンドンの競売所がモンテカルロで大量の壁区画延べ100mを一区画当たり最高
で3万ドイツマルクで競売にかけ200万ドイツマルクを荒稼ぎした。購入者の中に
は「鉄のカーテン」という言葉を作ったイギリスの元首相のウィンストン・チャーチル
の孫娘もいた。
その後には、ベルリン市がベルリンを表敬訪問した外国の賓客に壁の残骸をプレ
ゼントし、世界中に配った。その中にはロナルド・レーガン、ジョージ・ブッシュのアメ
リカ大統領の名もあった。しかし国の消滅とともに無秩序になり、壁破砕装置を使っ
て多くの場所でたちまち粉砕されて道路建設の基盤材として使われ、東西間の道路
網に敷かれたりした。
往時の壁の95%以上は壁撤去時に破壊されて、わずか数百の壁区画がそのまま
保存され、ベルリンのさまざまな所に総延長1.5キロの壁が存在するだけで大半が
失われている。
エピソード
- チェックポイント・チャーリーの西側に入ってすぐの角にある喫茶店『カフェ・アドラー』で、11月9日午後7時30分に入ってきたカメラマンの客がいきなり「これから1時間のうちにここで何かが起こるぞ。」と言い、すでに入店していた他の客7人が訝しむと「知らないのか。国境が開かれるぞ。」と言われて、女性店員が慌ててラジオのスイッチを付けると、どのラジオ局も記者会見のニュースでシャボフスキーの声が聞こえてきた。店員は女性1人だけであったので急ぎ店主に電話して「大変です。今にも何千人というお客が来るかもしれないんです。今すぐお店に来て下さい。」と電話で叫んでいた[151]。それからすぐにこの店員と男性店主が2人で境界線を越えて東側の警備兵に「一緒に飲もう」とシャンパンを持って誘ったが、断られたので店に戻った。やがてこの喫茶店にはゲートが開く前に西ベルリン市民が多く入ってきて、更にゲートが開いた後は大勢の東ベルリン市民が加わった。
- 国境が開放された夜、シャボフスキーの自宅では、夫は不在だったが妻イリーナは、シャボフスキーの発言が引き起こしたことで体制の崩壊につながると予感し、テレビでの騒ぎは何かと尋ねる年老いた母親と以下のような会話を交わしていた。イリーナ「国境を開いてしまったのよ」、母親「それ、私たちは今度は資本主義になるってことなの?」イリーナ「ええ、たぶんね」母親「それじゃ、どっちにしてもあと二、三年は長生きして、資本主義がどんなものなのか見なくちゃ」
- 当日、ちょうどベルリンを訪れていたダライ・ラマ14世は、崩壊の現場に向かい、東ベルリンに足を踏み入れ、歴史的瞬間を写真におさめた。老婦人から渡された蝋燭に灯を灯し、人々と共に祈った[153]。ノーベル平和賞受賞の1か月前のことである。
- ベルリンの壁崩壊後、1990年2月に現地を訪れたかまやつひろしは、撤去間際の壁の上に登り、アコースティックギターを手にゲリラライブを行った。この時歌われた「バン・バン・バン」は、同年5月に発売されたかまやつのアルバム『IN AND OUT』に「バン バン バン~ON THE BERLIN WALL(1990.2.23)」として収録されている。
- 東ドイツの政権与党であったドイツ社会主義統一党は民主社会党と改名し生き残りを図ったものの党員・支持者の大幅な減少が続き、90年代までは消滅寸前かと言われた時期もあった。しかし、ゲアハルト・シュレーダー率いる社会民主党の新中道路線に反発し同党を離脱した最左派とともに左翼党を結成した。左翼党は、SED時代の綱領を自己批判・総括して党内派閥を許容するなど党内改革を進め[注 36]、民主的な社会主義を目指しており、旧東ドイツ地域の地方議会では一部で与党になるなどある程度の復権を果たしている。
- ドイツ統一に貢献した当時のソ連外相エドゥアルド・シェワルナゼが、2003年にグルジア大統領を追われると、かつての恩人を見捨てることなくドイツへの亡命受け入れを申し出て一時はドイツ入りしたというニュースも飛び交った。実際はシェワルナゼは感謝しつつもこれを固辞してグルジアに留まっている。
- デビッド・ハッセルホフはこの年元日に、ブランデンブルク門の前で数百万人のファンを集めて「Looking For Freedom」という歌を歌い、ドイツ、オーストリア、スイスの3ヵ国でナンバーワンヒットに輝いた。ハッセルホフは後年、「壁の両側で民衆の心が動くのを感じた」と発言、この年に 起こったベルリンの壁崩壊と翌年のドイツ再統一への協力になったと語っている。
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<終>
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