山田の案山子

日々是吉日

挫けちゃ為らない人生が彼の日~此処か~ら始まった♪

2013年07月30日 | 時事・ニュース
故郷の訛り懐かし停車場
 大きな荷を重そうに背負ったお婆さん達の姿が、今も脳裏に浮かんでくる。茨城や千葉方面から東京に野菜等を売りに来ていたのだろう。子供の頃、上野駅に行くとしばしば目にした光景だ。

東京の北の玄関口が、一昨日開業130周年を迎えた。昨年新装成った東京駅よりはだいぶ古い。節目を記念して、寝台特急が発着する13番ホームの発車合図が変わった。「あゝ上野駅」である。

1964年に発売された井沢八郎のヒット曲。集団就職で地方から出て来た若者達への応援歌として、今も多くの人の記憶に残る。くじけちゃならない人生が あの日ここから始まった~♪

此の歌詞を地で行くようだったのが、後の首相、田中角栄だ。34年3月、15歳の少年は郷里新潟を出て上野に降り立った。処が、自伝『わたくしの少年時代』には駅についての記述がない。直ぐにタクシーに乗り、運転手にカモにされた。其の経験が強烈過ぎたのだろうか?

東北線や常磐線等の地上ホームは線路が行き止まりになっている。終着駅らしい造りと雰囲気が旅情をそそる。今は新幹線も東京駅に通じ、通過駅になりかけているが、「ふるさとの訛なつかし停車場」(啄木)の魅力は変わらない。

一時は駅舎を超高層ビルに建て替える計画もあった。バブル崩壊で構想が消え、独特の外観が保たれたのは幸いだった。博物館に美術館に音楽ホール、動物園に不忍池にアメ横。多彩な楽しみに溢れた街に摩天楼は似合わない。


 「あゝ上野駅」カラオケでも好く歌われる唄だ。中学卒業で集団就職列車で東京に出て来た人々は最早団塊世代と云われる時代を過ぎて居るだろう。故郷を離れた頃の事を懐かしみ、此迄の人生を想い出すのだろう。

 今の時代は高校卒業や大卒が当たり前なのだろうが、中卒と同時に働いて田舎に残る両親や弟・妹達の為に仕送りをしていた少年達も多かった事だろうが、今の時代は逆で親からの仕送りで大学に遊びに通う若者達が多い様な気がする。

 カネオクレタノム=金送れ頼む? 金遅れた飲む? 金お呉頼む?
 兄は中学3年の時に教師から高校進学を父に進められたそうだが、家業が理髪店が故に跡取りとして理髪店で奉公しながら理容学校の通信教育を受けて居たそうだが、理容師の道を捨て自分の今後をコイントスで決めたそうだ。

 上野の不忍池の近くのバーテンダースクールに働きながら通ったそうだ。池之端だったのかも知れない。
 其の後、バーテンダーとして働き、金を貯め店を開き、昼間は不動産管理会社で働きながら不動産管理の免許を取得したそうだ。

 今は亡き兄も上野が始発駅だと思ったのだろうか? 胆管癌を患い長い間入院生活の挙げ句、転院先の病院で間も無く手術で他界した。

 転院を知らされた時に親族を集める様にと医者から言われたそうだ。其の時点で若しやと気付くべきだったのだろうが、手術で治ると甘い気持ちで手術室から戻る前に帰宅してしまった事を今でも悔やむ。

 叔父の時もそうだが、人間メスが入る時は死ぬ時だと思う様になった。
 叔父の時には手術の為に輸血が必要だと云う事で従業員2人が一緒に病院迄行ってくれたが、既に手術は終わって居た。此の時は集中治療室で手を握り、兄夫婦は「仕事が在るから俺達は帰るけどお前は?」兄が帰る道中が家の前を通る事もあって一緒に車に乗って帰宅した。

 翌朝、叔父とも飲みに通った飲み屋の女将から「山ちゃん及川さん亡くなったの知ってる?」と電話で尋ねられた。マネージャーに電話をして通夜の場所を知る事になったが、輸血の依頼や入院の時だけ電話を寄越して肝心な事は後回しかと腹が立った事も想い出した。仏・放ってけで他界した人の事は忘れる事にして居る。
 冷たい人間なのだろう、他界した人間の一人も夢にすら出て来ない。