坂戸市公益活動団体『北坂戸フォークソング倶楽部』(山木ジョージの桜梅桃李)

 
1960年代~現在の歌を中心に皆さんと一緒に、ギター1本で合唱を楽しむサークルです。

赤い鳥

2020年05月22日 | 音楽

北坂戸フォークソング倶楽部 発起人 山木ジョージです。

久しぶりの投稿です。

有りがたい事

放置ブログに毎日何百人の訪問

閲覧数も50万回を超える勢いに成ってました。

もしかしたら、『YouTuber』に成ったら凄いかな?

まぁ無欲な男の子👦の小生ですから(ウソ煩悩の塊)

そんなこんなで、イベントが無いのでレコード紹介です。

10年前にレコードプレイヤーを500円で落札、しかし今年ゴールデンウィーク中に壊れ、新しいプレイヤーを購入 断捨離中

色々断捨離しましたがレコードは卒業を見送りました。

レコードの殆どはこの10年間にリサイクルSHOPで購入したり、友人~の贈呈品 それに嫁👰の花嫁の花嫁道具です。(笑)

今回は、北坂戸フォークソング倶楽部でも歌ってる❗赤い鳥です。それではいつものようにウキペディアから転載です。(手抜き男)

『赤い鳥(あかいとり)は、日本の音楽グループ。1969年に結成、1970年代を中心に活動し、1974年解散。メンバーは、後藤悦治郎(ギター)、平山泰代(ピアノ、1974年2月に後藤と結婚)、山本俊彦(ギター)、新居潤子(1973年4月に山本と結婚)(ボーカル・ギター)、大川茂(ベース、1969年6月加入、1972年8月アメリカ合衆国カントリーチャーチで結婚)の5名。後期には、大村憲司(ギター、1972年2月から1973年4月)、村上秀一(ドラム、1972年6月から1973年4月、村上“ポンタ”秀一)、渡辺俊幸(ドラム・キーボード、1973年4月から)を加える。デビュー前は松田幸一も参加していた。グループ名は鈴木三重吉主宰の児童雑誌『赤い鳥』からとった。
各人がボーカルを担当することができ、美しいハーモニーが魅力的なグループであった。各地の子守唄・伝承されている歌などを美しいコーラスワークで聴かせる傍ら、トニー・マコーレイ(en:Tony Macaulay)などの曲提供によりアルバムを発表するなどいわゆるソフトロック的な音楽性も兼ね備えていた(そのため、関西地区で結成されたグループであるが、関西フォークとは一線を画していた)。
赤い鳥は最初、後藤と平山の二人が日本民謡を独自のやり方で取り上げたデュエットだった[1]。山本と新居潤子は、谷村新司らとコーラスグループ「ヒルビリー・シンガーズ」を結成しており[1]、アマチュアコンサートで一緒になったとき、後藤に音楽性を買われ、大川を合わせた五人編成で「赤い鳥」が結成された。後期にはウッドストックの影響で、ロック色の強い音作りをしたが、基本的には赤い鳥は民謡とフィフス・ディメンションのようなコーラスものの両方をレパートリーにした。
1969年4月に兵庫県尼崎市武庫之荘にある公民館(通称「赤い屋根の家」)でコンサートを開催した。1969年11月、「第3回ヤマハ・ライト・ミュージック・コンテスト」に関西・四国地区代表として出場。「竹田の子守唄」、「COME AND GO WITH ME」を歌い、フォーク・ミュージック部門の第1位を獲得、他部門の優勝グループを抑え、グランプリを獲得した。このコンテストにはオフコース(当時は「ジ・オフ・コース」)、チューリップ(当時は「ザ・フォー・シンガーズ」)も出場しており、財津和夫はオフコースに、小田和正は赤い鳥にそれぞれ「負けた」と思ったという。
1970年4月に渡欧、ロンドンでレコーディングを行う。6月に日本コロムビアからシングル「人生」、アルバム『FLY WITH THE RED BIRDS』でメジャーデビュー。9月、東芝EMIレコード/Liberty レーベルに移籍。10月、合歓ポピュラーフェスティバル'70に出場、「翼をください」で新人奨励賞を受賞する。
1971年1月から1972年6月まで、竹田一彦カルテットがバックバンドとして協力。1971年2月発売の「竹田の子守唄/翼をください」が発売3年で100万枚を突破するヒットになった。1972年7月、渡米、レコーディング。
路線対立から1974年9月に解散。後藤・平山夫妻は「紙ふうせん」、山本夫妻と大川は「ハイ・ファイ・セット」、渡辺は「ハミング・バード」を結成した。』


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