うずくまっていた自分
『素敵な十六歳』を 私は十三の歳に聞いた
『悲しき六十歳』を聞いたのも おなじ歳だった
今私は 母の子守歌を聞いた歳を思う
いつの間にか自分は
母が死んだ年齢より 十年も多く歳老いた
記憶の中で
今の自分の歳より若い母が
病院のベッドに 横たわっている
あれから自分は 老いただろうか
肉体は 老いて衰えて
そして病んでいる
けれど私の心は 老いただろうか
母が死んでから
私は もう老わなくなった
親の歳を 追いかけることを
やめてしまった
私の心は ますます幼くなっていく
目を閉じると 私の記憶は
幼児の頃に 戻っていく
昨日のことより 若い頃のことより
子供の頃のことより
幼児の頃のことが 記憶によみがえる
裏庭のイチジクの葉をすかし
座敷の畳の上に差していた陽のひかり
黄金の日だまりが
這いずる私の小さな指の先に
まぶしくゆれていた
人声は聞こえない
憶えているのは スズメの鳴き声と
母の気配だけだ
あぁ それはたぶん
弟が生まれてくるまでの 三年間の記憶なのだ
あぁ そうだったのだ
弟が生まれてきてから
私は 私でなくなってしまっていたのだ
覆いの布のかかった鏡台
右がわの引き出しにあった白粉の匂い
シンガーの足踏みミシン
鋳物のペダルとミシン車を繋いでいた
茶色のゴムのベルト
あの三年間が 私が私であった一生だったのだ
弟が生まれて 私は 私を捨てたのだ
私は 私に捨てられたのだ
捨てられた私が 私の中で
すっとうずくまっていたのだ
母は 子守歌を歌ってくれただろうか
私の中にすり込まれている子守歌は
やはり 母が歌ってくれたものだろうか
私だけのものだった
母の気配が恋しい
うづくまっていた自分が 泣いている