A DAY IN THE LIFE

好きなゴルフと古いLPやCDの棚卸しをしながらのJAZZの話題を中心に。

表舞台を歩んだドナルドバードと、裏街道から上り詰めたペッパーアダムスの出会いは・・そして?

2014-01-05 | PEPPER ADAMS
Byrd In Hand / Donald Byrd

昨年も有名なジャズメンが数多く亡くなった。
一時ペッパーアダムスとコンビを組んだドナルドバードもその一人である。
享年79歳、若くして一流入りして、ハードバップ時代以降もブルーノートの看板スターの一人として活躍し、70年代に入って「電子化」の流れにもしっかり順応していた。

1958年から1961年のペッパーアダムスの活動において、ドナルドバードとの双頭バンドが主軸であった。彼のキャリアでもこの時代を一つの区切りにしているし、バードとの関係は非常に良い物であったと語っている。

実際に日々の活動を追ってみるとお互い他の仕事も忙しく、必ずしも日々一緒にプレーしていた訳ではないのが浮き彫りになってくる。
レギュラーグループでコンビを組んで長続きをするということは、男女の仲でいうと結婚生活と同じ。どのような経緯で知り合い、付き合い始め、何が2人を惹きつけあったのかが気になる。このバードとアダムスのコンビについて少し深堀してみようと思う。

アダムスは1930年生まれ、一方のバードは1932年生まれなのでほぼ同世代。どちらもデトロイト生まれということもあり、よく2人は他のデトロイト出身のミュージシャンと同様、「若い頃から地元で一緒にプレーしていた仲」と紹介される。
改めてアダムスの手記を読むと、実はお互い知っている仲であったが、一緒にプレーをしたのはニューヨークに出てきてからの1958年からだったそうだ。

良く学生時代の同級生から有名人が世に出ると、人に聞かれたとき「xxx君とは同級で良く知っているよ。よく一緒に遊んだ仲間だった。」というものの、実は友人どころか口もきいた事のない仲だったりすることはよくある事。事情を知らない他人は、その話を聞いて「お互い親友同士」で他に広まってしまうのが世の常だ。

二人の事の始めはどうやら以前紹介した1958年2月25日のFive Spotへ2人のグループで出演からのようである。二人ともダウンビートの新人賞をとり弾みがついたところで揃ってファイブスポットへの出演が決まり、同じデトロイト出身の仲間達がバックを固めたグループで出演した。
予想外の好評で2週間の当初の契約が4カ月になり、一時ハウスバンドになったのが2人のコンビのスタートであった。

そして、この2月25日は以前書いたように、ジョニーグリフィンのレコーディング、モンクのレコーディングが同時に行われ、このセッションを含めバードとアダムスは一日中一緒に行動していた。
2人の結婚記念パーティーだけでなく、たまたま同じ日に行われた別のパーティーにも夫婦そろって参加していたという状況だったのだろう。

アダムスとバードは同郷でありながら一緒にプレーをしなかったという理由は、経歴を改めて見ると納得できる。どちらも高校で楽器をマスターしプロへの道を歩むが2人は別の道へ。
アダムスは、高校を出ると地元のウェイン大学へ。専攻は英文学であり音楽ではなかった。一方で演奏を続けながら地元のクラブThe Blue Birdのハウスバンドのミュージックディレクターを務め、地元を離れニューヨークへ出たのは’56年。26歳の時だった。

一方のバードは、同じウェイン大学で54年に音楽の学士号をとった後すぐにニューヨークへ。翌55年にはマンハッタン音楽院でマスターをとると、すぐにジョージウォリントンのグループへ。その後名門ジャズメッセンジャーに誘われ、さらにクリフォードブラウンの後釜としてマックスローチのグループへと、この時すでに全国区のプレーヤーとしてトントン拍子に出世街道を歩んでいた。
ニューヨークを本拠地にして、56年、57年とモダンジャズが活況を呈していた時すでに中心に位置していた一人だ。この2年間で参加したアルバムは30枚以上あるだろう。

一方のアダムスは、56年にニューヨークに来ると腰を落ち着ける間もなく、すぐにスタンケントンのオーケストラに加わり全米を飛び回り、57年はロスで日々地元のプレーヤーと他流試合をこなしていた。バードとは色々な意味で好対照である。同じ新人賞でも脚光を浴び続けていたバードと、リーダーアルバムは作ったとはいえ、西海岸で地道に下働きを続けていて認められたアダムスの違いは明確である。

いわゆる、有名校を卒業し、有名企業に就職し、時の最先端の仕事をして表舞台を確実に歩んでいるエリートと、独学で実力をつけ、ベンチャー企業のおかげで世に出ることができた苦労人の違いだろう。

もっとも、アダムスも57年の9月にニューヨークに戻ると、あっと言う間にニューヨークの動きの中に同化し、半年でドナルドバード共に2月25日を迎えることになる。それもデトロイト時代からの仲間達の暖かい歓迎があったからだろう。

2人はモンクやグリフィンの仕事でたまたま一緒になり、さらに2人の新人賞受賞祝いでか(?)一緒にファイブスポットへ出る機会を得、そのままコンビを組むといった流れなので、出会いとその後の付き合いというのは何がきっかけになるか分からないもものだ。

この最初のファイブスポットへの出演した時の模様は、リバーサイドでライブ録音が残されアルバム”10 to 5”で聴くことができる
その時はアダムスがリーダーであった。アダムスの手記によると、その後も2人のバンドは自分のバンドという記述がある。しかし、ドナルドバードがブルーノートと専属契約を結んだために、その後の2人のアルバムはドナルドバードのリーダーアルバムとなって世に出ている。ここは、やはり表舞台を歩んできたバードの方が契約を含め表看板として重要視されたということだろう。

その年58年の後半は、アダムスがベニーグッドマンオーケストラに加わったり、チェットベイカーに付き合ったりで、バードとプレーをする機会は皆無であった。辛うじて暮れも押し迫った12月にブルーノートで2人の参加した初アルバムを作った。これが”Off To The Races”である。これには2人に加えてジャッキー・マクリーンが加わったセクステット編成であった。

年が明けて59年、モンクのタウンホールコンサートで2人はまた一緒になった。その後のモンクのオーケストラのツアーがキャンセルになったのが幸いして、2人のクインテットは3月末から4月初旬にかけて久々にクラブ主演する。
その後、アダムスは再びベニーグッドマンとの仕事がありすれ違いの生活が続く。次に2人で揃ってクラブに出演するようになったのは年も後半になって10月になってからだった。
「2人で水入らずの生活」のようなコンビはなかなか実現しなかったようだ。

その間、ブルーノートで2枚目のアルバムが5月31日に作られた。バードとアダムスとしては3枚目の共演アルバムになるが、それがこのアルバムByrd in Handである。今回は、ゲストにチャーリー・ラウズが加わる。ラウズもモンクのオーケストラの一員、その流れかもしれない。

前作に較べると、多少落ち着き感がある演奏だ。ゴリゴリのハードバップというよりはバードのオリジナル曲が多く、演奏自体もアレンジが上手く施されたジャズテットのような雰囲気である。バードのプレーも、どこかブラウンに似て来ているような気がする。

そこでふと思ったのだが、バードとアダムス中心のアルバムであることは間違いないのだが、これはバード&アダムスのレギュラークインテットの演奏とは少し違うのではないかと。ドナルドバードはこの時ブルーノートの専属、当然レーベルとしてバードを売り出さなければならないので、アルバムのプロデュースでも何らかの意図が働いた可能性がある。

バックを務めるリズム隊もあのデビューを飾ったエルビンを含むレギュラーメンバーではないし、直前の4月にクラブに出演していたメンバーは誰だったのか気になる。
そして、当時の本当のアダムス&バードのクインテットの演奏はライブでしか聴けなかったのではないかと思うようになった。

1. Witchcraft     Cy Coleman / Carolyn Leigh 8:29
2. Here Am I      Donald Byrd 8:25
3. Devil Whip     Donald Byrd 4:42
4. Bronze Dance    Walter Davis, Jr. 6:42
5. Clarion Calls    Walter Davis, Jr. 5:41
6. The Injuns     Donald Byrd 6:13  

Donald Byrd (tp)
Pepper Adams (bs)
Walter Davis Jr. (p)
Sam Jones (b)
Art Taylor (ds)

Recording by Rudy Van Gelder
Recorded on May 31, 1959 at Rudy Van Gelder Studio


Byrd in Hand
Dnald Byrd
Blue Note Records
コメント (2)
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