A DAY IN THE LIFE

好きなゴルフと古いLPやCDの棚卸しをしながらのJAZZの話題を中心に。

ドナルドバードにとって分水嶺となった一枚のアルバム・・・

2015-02-22 | PEPPER ADAMS
The Creeper / Donald Byrd

何事にもおいても変化を迎える時はその予兆があり、それに続いて大きな変化が生じるものだ。後になって思い返してみれば、あの時がその予兆だったのかということは分かるが、その渦中にいる時は、日常のちょっとした変化として見過ごされてしまう。

このアルバムは、例のカスクーナの発掘によって後に世に出たアルバムである。したがって、その当時はファンとしてはそのアルバムの存在すら知ることのできないセッションであった。
自分が、このアルバムを手にしたのはペッパーアダムスが参加しているアルバムだから、特にドナルドバードを追いかけていたわけでない。ペッパーアダムスを主体にこのアルバムを聴けば、アダムスの日々続く色々なレコーディング活動の中の一つにすぎない。ソロの出番が多いことを考えれば、バックのアンサンブルワークだけの仕事に較べると、旧友とのセッションでもあり、アダムス本人は自分も主役の一人と感じていたかもしれない。しかし、このセッションでの演奏が、自分自身の大きな節目になるとは思わなかったであろう。

ところが、このアルバムのリーダー、ドナルドバードにとっては、このアルバムが結果的に一つの区切りのアルバムとなった。
このアルバムのライナーノーツに、カスクーナ自身がドナルドバードについてかなり詳しく書いているが、そこにも、「これはバード自身にとっても分水嶺をなす重要なアルバムだ」と記されている」。

ペッパーアダムスの活動の軌跡を追っていると、このドナルドバードは各年代で頻繁に登場する。そもそも同じデトロイト出身で、同じような活動をしていたという事もあり、当然アダムスとバードとの接点は多い。いや、一緒にコンビを組んだこともあるので、お互い単なる知り合いという以上に2人は非常に密な関係であった。

ニューヨークにデビューしてから10年、同じような道を歩みながら2人のジャズ界におけるポジションはこの時すでに大きく違っていた。2人とも音楽に対して真剣に向き合うスタンスは同じでも、この違いは2人のキャラクター、人生観の違いもあったのかもしれない。

ドナルドバードはニューヨークデビューしてすぐに有名ミュージシャンのアルバム録音に数多く参加し、その勢いで名門ジャズメッセンジャーズにもすぐに加入する。その勢いのまま、ブルーノートで自らのリーダーアルバムを立て続けに出すシンデレラボーイとなった。新人から、一気に檜舞台を歩き続ける存在となり、衆目の注目するところとなった。

当然のように、有名人に仕掛けられる甘い誘惑も多かった。若くしてこのようにちやほやされると、生活も乱れてくるのが世の常だが、このバードの場合は、このような誘いを絶って自堕落な生活に陥ることはなかった。
反対に、約束を守り、必ず時間通りにメンバーを引き連れて現れるバードは、クラブオーナーやプロモーターからも絶大な信頼を得ていたという。

さらに、忙しい演奏活動の合間を縫ってニューヨークでも勉学に勤しんだ。まずは本業の音楽はマンハッタン音楽院で作曲を、さらにコロンビア大学の博士課程に進み、その研究範囲は歴史から法律までに及んだという。さらに作曲はパリでクラッシクについても学んだ。
なるべくして、リーダー、そして教育者としての素養が身に付いていった。企業であれば、幹部候補生が現場の仕事を重ねつつ幹部教育を受け、次期経営者候補に育っていくのと同じだったと思う。

一方のアダムスはというと、仕事の一つ一つの完成度を高めるのに注力していた。自分がサブの立場であれば、自分の役割を確実にこなし、自分がリーダーの時は必要以上に段取りを重視し。周囲への気配りを忘れず、細部の拘りを持って仕事をしていた。

そして、オフの時は文学を愛読し、ツアーに出ると地元の美術館廻りを楽しみにしていた。基本的には職人肌、芸術家肌の現場人間であった。企業でいえば専門職、管理職志向のバードとは必然的に進む道が違っていった。

カスクーナは、1966年のダウンビートにバードのインタビュー記事があったと紹介している。「考える事、計画を立てることは大事だ。僕らは、ミュージシャンである前に一人の人間であり、一人の人間として他人と付き合っていかなければならない。この業界では、ミュージシャンだから好き勝手をしても許されると考える人もいる。遅刻の常習者や、反社会的な行為をする人もいる。けれども、行動は自ら起こさねば。他人が導いてくれるわけではない。未来は自分の手で掴むものだ。」と。
このコメントで、バードはプレー以外でもかなり計算づくで人生設計していたことが分かる。

さらに、バードは続ける、「クインシージョーンズ、オリバーネルソン、ラロシフリン達は皆自分達の出身母体に背を向けることなく、日々の活動の中からさらに多くの事を学び、世間に目と耳をオープンにしている。それに必要なのは音楽の教育(広い素養)と、人との関わりで自分を売り込んでいく技術だ。彼らは、皆それらを身に付けている」と。

これで、バードが目指していたことが読み取れる。決して偉大なプレーヤーになろうとは思っていなかったのだ。
この後、アルバムもしばらく途絶える。充電期間なのか、変身に要した時間なのか・・・?
事実、3年後に演奏スタイルはがらりと変わる。いわゆるエレクトリックバードの世界だ。さらに、その後は、次第にプレー自体が減ってきた。反対に、プロデュース、大学で教鞭をとることが多くなっていった。最後は、黒人の歴史と黒人の音楽の研究に没頭し、書物、写真、譜面、音源などの資料は自宅に入りきらないほどだったようだ。
それがバードの望んだ音楽人生であったのだ。

反対に、ペッパーアダムスは、これから10年以上サドメルのレギューラーに在籍し、その後はソリストに専念した。まさにバリトンサックスプレーヤーとしての職人芸を極めることになる。

このバードの人生観を知り、その後のキャリアを見渡すと、このアルバムはプレーヤーとして主体的に活動してきた最後のアルバムと言ってもいいだろう。その後も演奏は続けたが、バード全体の音楽観の中では、トランペットのプレーはほんの一部であった。

このアルバムのもう一つの特徴は、ピアノのチックコリアとベースのミロスラフヴィトウスの参加であろう。2人との丁度売り出し中の新人であった。

このアルバムでバードは自分のオリジナル曲以外に、チックの曲も2曲演奏している。自分の曲はファンキーに、そしてコリアの曲は完全にコリアの世界だ。そして、スタンダードともいえるシェルブールの雨傘では、実にリリカルにストレートなバラードプレーを聴かせてくれる。アダムスとレッドはお休みだが、コリアのピアノとバードのプレーが秀逸だ。



このアルバムの後、バードを除く他のメンバーはメインストリームジャズの世界を歩み続ける。しかし、バードは、コリアやヴィトウスと一緒に別の新しい道に踏み入る。

コリアは70年にマイルスのバンドに加わり、その後サークルを経てリターンツーフォーエバーへ、ヴィトウスはウェザーリポートへ参加、そしてバードはブラックバードで大変身へ。
新しい道を選んだ3人はそれぞれ一世を風靡する活躍をする。

バードだけでなく、このセッションに参加したそれぞれのメンバーにとってもこのアルバムが分水嶺だったように思う。バードにとっては、新しい試みがある訳でなく、チャンジングな演奏でもなく、今までの演奏に一区切りをつけたようなアルバムだ。

1. Samba Yantra               Chick Corea 9:33
2. I Will Wait For You   Norman Gimbel / Michel Legrand 9:02
3. Blues Medium Rare            Donald Byrd 6:02
4. The Creeper              Sylvester Kyner 4:38
5, Chico-San                 Chick Corea 6:42
6. Early Sunday Morning           Donald Byrd 6:15
7. Blues Well Done              Donald Byrd 6:19

Donald Byrd (tp)
Sonny Red (as)
Pepper Adams (bs)
Chick Corea (p)
Miroslav Vitous (b)
Mickey Rocker (ds)

Produced by Alfred Lion, Frank Wolff, Duke Pearson
Produced for released by Michael Cuscuna
Recorded at Van Gelder Studios, Englewood Cliff, New Jersey on October 5, 1967
Recording Engineer : Rudy Van Gelder

ザ・クリーパー
ドナルド・バード,ソニー・レッド,ペッパー・アダムス,チック・コリア,ミロスラフ・ヴィトウス,ミッキー・ローカー
ユニバーサルミュージック
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