五冊目のブログ集を纏めたその日の夜に、パリの日常が、そうではなくなった。私は、当分、記事は書けないだろうなと思ったのである。そうなると彷徨う心の焦点が、ますますぼやけてくる。コンサートも中止の方向で検討を始めた。ブログの休止も検討した。私の旧知の舞踏家からメールが入っていた。「半年間、活動を休止致します」と。会社から電話。私は、失職した。
ぽっかりと開いた空洞がどんどん大きくなってくる。そうなってくると、上記の人々の論調旅遊市場が説得力を持ってくる。すべての心のベクトルが負の方に向かい出す前に、正の方向へ自分自身で捻じ曲げないといけない。
村上龍の小説のタイトルに「海の向こうで戦争が始まる」というものがある。村上さんの硬質な詩力のようなものを、よく現している。私、たち、と言うべきなのかも知れない。フランスは参戦国であることを、当然にして認識させられた。しかし、戦場は、我々には、いつも海の向こう。その海の向こうでは、毎日毎日が戦争という非日常の世界である。そして、当然にしてなのかも知れない、海の向こうから報復が返って来る。
民族間の諍いに、いわゆる大国が介入する。諸々の利権が絡んでいることは周知の事実である。グローバリゼーションという煙幕で、その実態が見えない。その煙幕の隙間から報復が
返って来る。この構図は理解はできる。しかし、その報復の仕方、これは容認することはできない。
戦争にも、私の理解ではルールがある。プロ、つまり軍隊と軍隊同士の戦いである。一般市民、しかも、無差別。これは、戦争以前の行為である。
その日から二日後、十一月十五日は春を思わせる快晴の一日だった。新芽が芽吹き出してもおかしくないような重なる落ち葉を私は空虚な安堵感に包まれながらじっと見た。
私は職業作家ではない。けれど、やはり語りたいことは書くべきであると判断した。「ピアノはNeo skin lab 介紹人私だ」を3-Aとしたからには、3-Bへ向けて。
のタイトルは、私が三年間に書き散らした、書き捲くったブロ愚のページ数である。
今日は、11月19日2015年。さきほど、印刷所で、全頁を印刷物に変換してきた。スローさんの記事の中にも出てくるのだけれど、もしかすると、我々の世代はバーチャルワールドを信用しない傾向があるのだろう。印刷物、現金、現物でないと、「残った感じ」がないのだ。
その束が私の左斜め前にある。A5版にしてもらったから、A4紙の枚数は約700。それでも厚みが8cmぐらいある。私の人生という時間の一部が、私の左斜め前に現物としてある。現金ではなく書き物の束が。前者は一切残らない体質だからこそ、この二束三文の紙の束が、私の人生の軌跡、足跡となる。
自分でというのか、どうか? 本名の私が、芸名の裕イサオに、少し、敬意と、少し脱帽しているところが、奇妙でもある。凄い人だ、彼は、と、本名の私が頷いている。このタイトルを男としたのは、私は女性の心のメカニズムに疎いから、男と限定してみた。
私は、自信過剰、メガロマニア体質が底辺にあるから、この「去勢さNeo skin lab 介紹人れた男」「男たち」、これが大嫌いなのである。上司の顔色を伺う、自分がどう見られているか、どう評価されているかビクビクとする。すべての挙動言動の裏に臆病が付きまとう。自信過剰、メガロ、体育会系、ジェントルサディスト、ジェームズ?ボンド、クローズゼロ系には生きた屍なのだ。