晴れた朝。自宅の庭に出た。
実に気持ちいい。さわやかだ。
ふと見ると、窓を登る影。
庭に棲息する虫たちの一員、蝸牛であった。
窓の上に何があるというのか。何を目指しているのか。
と、躯をくねらせて、下方にターンしてきた。
やはりな。このまま時が経つと、夏の強烈な陽光が君の躯を殻ごと干上がらせたかもしれなかった。
無駄な目標に対しては、引き返す勇気が必要だ。
そして、それ以上に、目標を設定するにあたっては、その意義を吟味し、その結果を見通すことがまずもって重要だ。走りながら、では大抵失敗する。
多くの動物にとって意義と結果の内容は同一で、欲(生きるための欲)に根差す。
おそらく、蝸牛は窓の上方から美味しそうなにおいを感じたが、のろい歩みのうちに、それが感じられなくなったのだろう。
人にとっても、意義、結果を左右するものは欲望であるが、より高次の欲求か、価値観という言葉に置き換えられる。
腹が減っていてもファーストフードでは嫌だったりするし、大金をもらえるとしても自分の主義主張に合わなければノーサンキュー。
ただ、厄介なことに、意義と結果が違う方向を向いている場合がある。
日本人の場合、元来の島国やむら社会の奇妙な連帯か、恥の心をくすぐる独自の社会主義に毒されたせいか、滅私奉公や自己犠牲という美徳が建前ではなく現存する。一方で、相反するアメリカ的個人主義に根差す成果主義が横行する時代にあってだ。
良し悪しはともかく、「美徳」の価値観のほうは到底グローバルスタンダードにはなり得ない。
美徳は強力な日本人のオプションではあるが、オプションに過ぎず、本体がなくて闇雲であれば、個人のみならず全員を危うくする。集団自決まで行かなくても「巻き込まれる」危険性は棄てられない。
一方、成果主義のほうは、、、あっ、もうこんな時間!
蝸牛からグローバルまで、話を拡げすぎた。