統計学をなんらかのかたちで用い、
精神の「正常」
を定義することは、出来るのであろうか?
不思議なことに
自然や人間に関する事柄のほとんどは、
正規分布に準じていて、
実は、平均値の周辺という、予測可能な範囲に多くが在るさまを教えてくれる。
不思議なことに
乱雑な数字の集まりにしか見えないもののなかにも、
おなじベル(形)曲線が現れる。
ベル曲線は、人類や世界にとって重要な事柄ほぼすべてを、きわめて正確に予測する力を与えてくれる。
不思議なことに
人間の特徴は、肉体、感情、知性、態度、行動のどれをとってもひとりひとり異なるが、
その差異は無法則などではない。
どのような特徴であれベル曲線に沿って
「正常」
に分布しており、人口中に連続分布している。
身長、体重、知能指数、性格などの特徴は、すべて、平均値を中心として、はずれ値がその両側に左右対称に並ぶ形で固まる。
このことを、簡潔、明瞭、ひとこと、で要約しているのが、
「標準偏差」であろう。
統計学をなんらかのかたちで用い、
精神の「正常」
を定義することは、出来るのであろうか?
理論的には、
最も障がいの重いとされる人たち(全人口の5%、10%、30%でも)が精神疾患で、残りは正常だと勝手に決めることは出来る。
そして
理論的には、
調査(方)法を開発し、あらゆる人たちにスコアをつけて、ベル曲線を描き、境界線を定めて、「病人として」レッテルを貼ることすら出来る。
しかし、現実は、決してそのようにはならない。
なぜなら、統計、状況、価値にまつわる判断があまりにもたくさん在るがために、統計学による単純な解決はそれらに妨げられるからだ。
統計学の基をなすはずのデータや統計とそれに付随する要素が統計学に噛みついている格好だ。
私は、いつも、ウロボロス、またはウロボロス円環を想起することを禁じ得ない。
ベル曲線のなかで、どこに境界線を定めるのであれ、その両隣にいる人たちは、ほぼ変わらないはずだ。
それなのに、一方は病気であり、他は健康であるというのは独断に満ちている、と私は思う。
確かに、どこかに基準値を設けなければならないし、基準値を設けることの有用性をある程度私も理解している。
しかし、統計学に縛られたり、統計ばかり見て、
「ふつう」の領域をコントロールし、条件が満たされているという理由の精神疾患のを拡大することは、間違っている、と、私は、考える。
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