「私たちは皆、違う船でやって来たかもしれないが、今は同じボートに乗っている。」
(マーティン・ルーサー・キング・ジュニア)
自然選択は、多様性を愛し、またそれに報いるものなのだろう。
私たちは、1000万種以上の生物とこの地球を共有している。
そして、この多くの生物は、これまでに発生した生物のたった1%にしか当たらないという説もあるのだから。
どの種も平均的な生存期間はおよそ100万年であろう。
何事も永遠ではないが、絶滅の過程はたいてい少しずつ進み、目立たないものである。
過去に突如として起きた、5度の大量絶滅は、その当時に生きていた種の50%以上を死滅させた。
原因は5度とも、すべて、自然現象であった。
私たちは、今、この地球で、6度目の大量絶滅の危機の真っ只中にいる。
ただ、今回の絶滅の原因が在るならば、それは、私たちが生み出したものである。
人類の人口増加は常に、私たちが押しのけ、時には死滅させた種の犠牲のもとに成り立ってきた。
ますます強力になるテクノロジーと、とどまることを知らない人口爆発や環境破壊によって、私たちが、今、齎す可能性がある害を考えたとき、やはり6
度目の世界規模の大量絶滅を十分生み出せる状況にあるといっても過言でない。
現に、地質学上の記録では、通常の環境下にある場合、100万 種あたりの毎年の絶滅数は、たったの1種であることが、示されている。
ところが、今、種の絶滅の割合は、年間3万種に近づきさらに増える勢いである。
現在、生存する種のすべてのうち、およそ30%が100年後にはいなくなるという試算には戦慄を覚える。
ある種にとっての毒は、別の種には食料となることがあるようだ。
また、生態的地位を占めていた種がいなくなるたびに、新たな競争者にとっては、一時的にその力を披露し、空いた地位を埋めるチャンスが生まれる。
進化にはそんな皮肉なユーモアが込められている、と、私は思う。
なぜなら、隕石による環境への影響のために、恐竜が一気にいなくなっていなかったならば、私たち哺乳類の祖先は、昆虫を捕食する小さな弱々しい存在のままでいて、環境や地球に住んでいた他の生物に、これといった脅威を与えず、一方で、恐竜は、巨大な脳を進化させる過程を隕石に邪魔されなかったため、丁度、今の私たちがしているような形で、自らを絶滅に追いやっているかもしれないなど、と、想像できる余地があるからである。
確かに、私たちは、この世界とそこに住むほとんどの生命体を一時的に支配してきた。
しかし、支配することは、それを守る責任をも伴う。
驚くほど複雑で、限りない多様性を持ち、見事なまでに精巧だが、壊れやすい相互依存関係を持つあらゆる生物を犠牲にして、人類だけが繁栄するべきだ、と、いう考えは、愚かな妄想であり、愚かな妄念であろう。
さらに、他の種と、ではなく、同じ種である人類同士においても、類似した愚かな間違いを私たちは繰り返している。
「歴史とは私が目覚めようとしている悪夢である」と言ったジェームス・ジョイスの、絶望が伝わってくることばを想起したが、さまざま規模、さまざまなレベルの歴史がありすぎて困るので、誤った政治的決断と社会の妄想に関する体系的な研究の歴史に絞ってみたい。
トゥキュディデスは、ペロポネソス戦争で戦った両陣営が犯した選択の誤りを、きわめて詳しく分析することに拠って、その歴史を切り拓いた。
トゥキュディデスには先見の明があり、
こうした特定の戦争において、何を誤ったかを深く理解することによって、
その後のあらゆる戦争で繰り返す可能性がある事柄を明らかに出来ると考えていた。
アメリカのベトナムやイラクへの、ロシアのウクライナや他国への無意味な侵攻について理解するための最もよい道標となるのは、
アテネが2400年前にシチリアに侵攻したときに、同じような過ちをどのように犯したのか、研究することである。
アリストテレスは、もっと異なった経験的手法を採った。
ギリシアに在る158の都市国家の憲法を集め、それらの統治ルールのなかのどのような要因が、最も成功、あるいは、失敗に繋がりやすいかを見極めたのである。
社会の過ちを明らかにする近代の取り組みは、ローマ帝国の衰亡に関するエドワード・ギボンの歴史的分析から始まった。
そして、社会の成功と崩壊の地理的決定要因に関するジャレド・ダイアモンドの卓越した分析により、そうした取り組みは頂点に達した。
人間の行動の動機を理会することは、とても、難しい。
それは、人間が、自らがとる自滅的とも言える行動に対して、都合の良い言い訳を考え出す能力に非常に長けているからである。
数回にわたって述べたように、人間の行動の大部分は自動的に行われ、持って生まれた無意識の本能とある程度の気質に関しては、意識に拠る制御がほとんど及んでいない。
私たちは、人間が持つ属性について理会すべきである。
その属性とは、人間が、いつも、最初から行動を自発的に選択のしておこない、自分がやっていることを本当にわかっているような、もっともらしいストーリーを、後からつくりあげる、と、いうものである。
この属性を理会することは、過ちの数を減らし、持続可能な社会へ続くために必要なことだ、と、私は、思う。
ここまで、読んでくださり、ありがとうございます。
明日から、(また、)数日間不定期更新になります。
よろしくお願い致します。
寒いですね。
ブログを描くときのお伴(お友かも?)に、貼らないカイロが必須です。
と言いつつ、不定期更新前なので、気合いが入ったのか、長文になってしまいました。
長いにもかかわらず、読んでくださりありがとうございます。
今日も頑張りすぎず、頑張りたいですね。
では、また、次回。