おざわようこの後遺症と伴走する日々のつぶやき-多剤併用大量処方された向精神薬の山から再生しつつあるひとの視座から-

大学時代の難治性うつ病診断から這い上がり、減薬に取り組み、元気になろうとしつつあるひと(硝子の??30代)のつぶやきです

「共有地の悲劇」を演じている私たちを認識することから-私たちが直面していることについて考えるⅢ⑫-

2024-04-25 06:29:10 | 日記
人間の経験よりも希望が勝ち続けたために、戦争に対する楽観的な見方が続いたことは、もはや驚くにはあたらないのかもしれない。

ベトナム戦争は、「イラクから離れよ」という、警告にはなっていないようであるし、ヒトラーはナポレオンから学ばず、私たちは、悲惨な第1次世界大戦を経験しても、2度目の大戦を防げなかった。

戦争に参加する決断は通常、脳の最も原始的な部位によって下された後、脳の賢明な部位によって、巧みに、もっともらしく理屈づけされる。

また、戦争熱は、もうすでに分別があるはずの、優れて賢明な人々にも波及してしまうようである。

いつもは冷静で悲観的なジークムント・フロイトが、自分の息子を喜んで前線に送り出したことも例のひとつであるが、第1次世界大戦が始まったことを、対戦に参加した双方の知識人たちは喜んでいたのである。

悲しいことに、私たちの多くは、好戦的で短気な祖先の遺伝子を持っているため、愚かな戦争をするのが歴史のパターンとなってしまっている。

もっともらしい理由のために戦い、ときに両者に大きな犠牲を出し、本当の勝者はいない。

もっともらしい理由のための戦いは、小さな集団で生活し、敵対する広い世界を彷徨っていたころの私たちの祖先が生存するためには、確かに必要なものであった。

しかし、現在、極端に混み合い、完全武装した小さな惑星の中では、そのような戦いは不幸を招く不必要なものである。

しかし、ヒトラーが唱えた生存圏のことを、イラク、シリア、イエメンのことを考えてみれば、わかることなのだが、
人口爆発や気候変動などによる食料不足が起き、供給されるものが少なくなると、マルサスの小さくなるパイから大きい分け前を得ようと、戦いはさらに激しくなる可能性があるのだ。

戦争という愚かな決断はたいてい、怒りや恐怖から性急に下される。
それは、心情のみに突き動かされ、ほぼ何の配慮もなしに、構える前に銃を撃っているようなものである。

戦争という不必要な行為をする余裕は、もはや、私たちにはない。

加速度的に資源の枯渇が進み、人口増加の圧力が増していることを考えると、戦争をしたがる私たちの性質をそのままにしておくわけにはいかないだろう。

今後は、私たちが、まず紛争を解決するためのもっとよい方法を早急に見つけるか、あるいは、戦争の頻度、激しさ、残忍さ破壊の度合いが増すかのどちらかなのかもしれない。

しかし、幸いにも、私たちのなかには、平和と愛他心も確りと組み込まれてはいるので、解決策はないことはない。

ただし、平和と愛他心は、紛争を解決し和解するためのものであるのだが、仲間内でだけしか、発揮されないのである。

私たちは、仲間以外の者たちには、抑えが効かないほど攻撃的になることがよくあるが、仲間とみなした者とはたいてい合理的な取り引きをする。

ならば、私たちは、とても混み合った小さな一隻の船に乗っているひとつの非常に大きな仲間集団であることに早く気づくべきであろう。

はっきりしていることは、今の世界のなかで、自分が属する小さな集団の利益を相手の集団から守るために争う決断をすれば、争った両者は共に沈んでしまうということである。

私たちは、「共有地の悲劇」を演じているように私は、思う。

ギャレット・ハーディンの著書『共有地の悲劇』によって提唱されたこの考え方は、
「誰でも自由に利用できる状態にある、(出入り自由な放牧場や漁場などの)共有資源が、管理がうまくいかないために、過剰に搾取され、資源の劣化が起こること」を指している。

現在の私たちは、人口が増え続ける世界で、ますます少なくなるものを求めて必死に競い合っているではないか。

個人の幸福を最大限に追求することは、集団にとっての惨事に繋がる可能性があることが、いつまでもよく理解できない人類の悲しむべき致命的な欠陥が日々の争いのニュースから、露見し、重苦しい気持にすらなる。

大きな謎は、なぜ宇宙の起源を理解し、ゲノムを解読し、モナ・リザを描き、ピラミッドを作り上げ、高度な計算法を編み出しコンピュータを発明し、太陽系を探査したほど賢い人間が、なぜ、争いを止められないほど愚かなのかということである。

私たちは、平和に暮らす方法、欲望を抑え、分相応な生き方をする方法、私たちの現在のニーズと将来に対する責任のバランスを取る方法をこれまでほとんど考えることができていなかった。

私たちは、私たちがひとつの文明として、そして、ひとつの種として生き残るに値するかどうかを決めるために今すぐ現実に必要とされているものを、私たちが抱く社会の幻想によって自ら見えなくしているのである。

私たちは、また、進化の途上にあるのではないだろうか。

私たちの身体の構造を見てみても、脊柱は二足歩行に完全に適合してはいないし、虫垂は益よりも害をもたらしている。

さらに、私たちの心は、自滅的な行動に繋がる原始的な本能によってコントロールされているのである。

人間とは何者なのだろうか、どのようにしてここまで進化し、なぜ、これほど優れていると同時に、愚かでもあるのだろうか。

チャールズ・ダーウィンの
「生き残るのは最も強い種ではなく、最も知的な種でもない。
最も変化に適応した種である」
ということばが、私の頭を去来するのであった。

ここまで、読んで下さり、ありがとうございます。

今日の関東は、真夏日のところもあるかもしれないとう予報でした^_^;

体調管理に気をつけたいですね(*^^*)

今日も、頑張りすぎず、頑張りたいですね。

では、また、次回。


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