日本には、わが国独特なかたちで、文芸評論家といわれる人びとが、いる。
文芸評論家は、学者でもなければ、ジャーナリストでもない。
つまり、大学に依存しているわけではないが、新聞社や出版に依存しているわけでもなく、敢えて言えば、そのいずれにも依存しない、独特な存在であるが、その存在は決して小さくはないのである。
文芸評論家とは、なにか。
そして、なぜ、日本では文芸評論家が「哲学」を語り、「政治」を語り、そして「物理学」や「数学」さえ語るのだろうか。
今回から、柄谷行人という文芸評論家を通して、この問題について少し考えてみたいと思う。
柄谷行人は、「文芸評論家」として出発している。
デビュー作は、「群像」の新人賞を受賞した『意識と自然』というタイトルの漱石論であった。
以後、柄谷行人は、『畏怖する人間』や『意味という病』などに収録される文芸評論を書き、新進の文芸評論家としての地位を確立する。
ほぼ、同時代に台頭しつつあった「内向の世代」を支える文芸評論家の1人と目されるようになる。
柄谷行人は、かなり平凡な文芸評論家の道を着実に歩いていたはずだった。
しかし、柄谷行人は、1974年に、突然、「群像」に『マルクスその可能性の中心』の連載を開始する。
これは、柄谷にとってはじめての本格的な長編評論となるはずのものであったのだが、文学論ではなかったのである。
さらに、柄谷行人は、『マルクスその可能性の中心』以後、それ以前の「文芸評論家」柄谷行人というイメージを一新するかのように、文学論の分野から離れて、1977年から「現代思想」に連載された『貨幣の形而上学』、1980年に、『内省と遡行』、1981年に「群像」に連載された『隠喩としての建築』、同年に「現代思想」で発表された『形式化の諸問題』、さらには、「群像」に連載した『探求Ⅰ、Ⅱ』、というように、一連の哲学的、思想的な著作を次々と発表するのである。
柄谷は『マルクスその可能性の中心』以後、もっぱら、非文学的場所で、文芸批評というよりは、哲学、思想論を展開してきたといっても過言ではないだろう。
これら一連の哲学的著作と平行して『日本近代文学の起源』や、中上健次との対談集『小林秀雄をこえて』など、文芸評論家としての仕事もしてはいたのであるが、そのような一連の文学論の分野の仕事は、一連の哲学・思想関係の仕事に比較して極めて影が薄いのである。
しかし、このことは、柄谷行人が、「文芸評論家」を捨てて、「思想家」になったのではなくて、その批評のテーマを「文芸」から「哲学」へ転換させたことを意味しているのではないだろうか。
柄谷が、その批評のテーマを「文芸」から「哲学」へ転換させたこと、そして、彼が、「作家」や「作品」ではなく、マルクスやソシュール、あるいはゲーデルやヴィトゲンシュタインを問題にしたことは、
柄谷行人が「文学論」から文学の「基礎論」へ、その文芸評論の活動の場所を深化させたことを意味しているのではないだろうか。
つまり、柄谷が、文学の「基礎論」を問うことによって、哲学・思想的な場所と通底するような原理的な場所に移動したことを意味しているのではないだろうか。
そして、むしろ、そここそ、文芸評論の本来的な場所であり、少なくとも、小林秀雄とともにはじまった文芸評論とは、そのような場所に踏み出すことによってはじめて可能になった文学的な表現形式ではないだろうか。
柄谷行人が、「文芸評論家」として脚光を浴びるのは、『マルクスその可能性の中心』以後であり、「文学から哲学」へ移ってからでもあり、そして「文芸評論家」として注目されていてもどこか「文芸評論家から思想家」に変身してからである。
柄谷は「文学から哲学へ」移り、「文芸評論家から思想家へ」と変身した時にはじめて、「文芸評論家」になったのかもしれない。
小林秀雄以後における「文芸評論家」という存在の基準に照らしていえば、哲学や思想を内包しない文芸評論は、文芸評論となり得ず、また、思想家でない文芸評論家は文芸評論家ではあり得ない、ということになるだろう。
たとえば、柄谷行人が、柄谷とほぼ同時代の文芸評論家たちのなかで、ただひとり、時代の風化に耐え、注目するに足る文芸評論家へと成長したのは、彼のマルクス論以後の一連の哲学的作業によるところが大きいだろう。
そこには、柄谷行人のみにあり、柄谷行人以外の評論家に欠けていた、絶えず基礎へ基礎へと遡ってゆく哲学的・思想的な作業である、原理的思考があるのではないだろうか。
原理的であることは、思考を徹底することであり、文学評論は決して、ある原理や哲学に基づいて、作家や作品の本質を解読する作業だけを意味してはいない。
むしろ、文学評論が「批評」(クリティック)と呼ばれることからもわかるように、文学評論の本質的な仕事は、ある原理や哲学を文学作品の解読に応用することではなくて、逆にその原理や哲学の「基礎」と「根拠」を徹底的に問い返す作業のなかにあるのではないだろうか。
江藤淳が
「批評とは理論の虚偽をあばくことだ」
と言っていることは、これと別のことではない。
喩えば、江藤が、戦後思想や戦後文学を批判するときに、宮沢俊義の憲法論にまで遡って、戦後思想の見えざる原点から批判し、解体しようとすることは、極めて批評的であり、また、文芸評論的であるといえるだろう。
このような原点に立ち返り、そこから批判し、解体しつくすという批評的作業は、小林秀雄のマルクス主義批判以降、文芸評論家たちの基本的な思考のスタイルとなったといってよいようである。
文芸評論が批評となるためには、思考の原理にまで遡る努力が必要であるし、そこで、私たちは、はじめて批評に出会うことができるのかもしれない。
柄谷行人は、このような原理論的な思考について、『隠喩としての建築』のなかで、
「それはゲーデルの定理を他の領域に翻訳することであるよりも、逆にゲーデルの定理こそ、本来数学とは無縁な問題、すなわち、『言語は言語についての言語である』という自己言及性の問題が数学レベルであらわれたのである。
ゲーデルの定理が形式体系一般にあてはまるとすれば、それは『形式化』が数字そのものとはべつのところから来ているからだ。
そして、19世紀後半にはじまる数学基礎論(カントール)は、経済学(マルクス)、心理学(フロイト)、言語学(ソシュール)などの領域における基礎論的問いと通底するのである。」
と述べている。
柄谷行人は、様々な分野の思想家が、その学問的、思想的な研究の頂点で、同じひとつの問題、つまり基礎的な問いのなかにある同じひとつの問いにぶつかると言っているようだが、言い換えると、それは、原理論的な思考を押し進めてゆくと、最終的には、その思想や学問の基礎的な部分に辿り着く、ということではないだろうか。
しかし、その基礎的な部分は、実はその思想や、学問独自の基礎であることはできず、あらゆる人間の思考一般が依拠している基礎であるほかはない。
その基礎論の場所はもはや、数学、経済学、心理学、言語学といった学問的枠組みが通用しない場所であろう。
いわば、柄谷行人のいう「基礎の不在」に直面するのは、数学も、経済学も、また文学や文芸評論も同じである。
もはや、そこでは、「科学的」とか、「論理的」とか、あるいは「数学的」とかいったことばは、いかなる説得力も持たず、そこでは、文学も数学も経済学も心理学も等価であり、同じように基礎の不在に直面している。
たとえば、マルクスが何を問題にしていたか、は、『資本論』のなかで、マルクス自身が、
「価値形態、その完成した姿である貨幣形態は、はなはだ無内容かつ単純である。
にもかかわらず人間の頭脳は、二千年以上前からこれを解明しようと、つとめてきて、果たさず、しかも、他方、これよりはるかに内容豊かで複雑な形態の分析には、少なくともほぼ成功している。
なぜだろう?
成体は、体細胞よりも研究しやすいからである。
しかも、経済的形態の分析においては、顕微鏡も、化学試薬も、役に立たない。
抽象力が、両者にかかわらなければならない」
と述べている。
価値形態の分析は、あらゆる学問的、思想的、芸術的な思考が直面する基礎論的な問いのなかにあるため、そこでは、数学も科学も「基礎の不在」に直面しており役に立たないのであろう。
「商品」の分析からはじまるマルクスの『資本論』は、単に経済学の書ではあり得ないように思う。
この経済学という入り口から入ってゆくにもかかわらず、経済学を超えた、あるひとつの基礎的な問いを問うた本に、柄谷行人は何を思ったのだろうか。
次回の日記は、そこから、はじめようと思う。
ここまで、読んで下さり、ありがとうございます。
見出し画像は銀座で撮影したものです😊
今日も、頑張りすぎず、頑張りたいですね。
では、また、次回。