戦いでも、救済でもない、
人間が人間を愛することに拠って生まれる
「歓喜に寄す」
という人間賛歌が歌い出されるのだが、
この旋律に辿り着くまでに、
ベートーベンは、
いったい、どれほどの長い夜を過ごし、
それでも、生きたいと、涙とともにパンをかじる日々を経なければならなかったのであろうか。
その結論や歌詞が大事でないのかもしれない。
ベートーベンという、自殺を決意し、「生きる」困難と苦悩と戦い続けた人間が、ついに生命を肯定するに至った、その魂の動きそのもの、が、聴く者の魂と共振するからこそ
「第9」は不滅の名曲なのであろう。
呼ぶ声があり、応える声がある。
困難を経て、大いなる歓喜へ。
これこそが、ベートーベンという人間が、終生追い続けた主題である。
その主題のために、彼は従来の音楽形式を破壊し、拡大することも厭わなかった。
いわゆるソナタ形式はベートーベンという魂が要求して生み出された形式である。
そこでは、明暗両極端の2つの主題が激しい相克を展開するのだ。
「第9」の第1楽章は、まさにベートーベンならではのソナタ形式で、
空虚5度という、漠然とした響きの中から、峻厳な第1主題が現れる。
それは、次に現れる歌の心に満ちた、優しい第2主題と鋭利な対立をみせる。
しかし、ベートーベンの創意はソナタ形式にとどまらないのである。
彼は、交響曲全体を統一する新しい構想を持ち込む。
ベートーベン以前の交響曲というジャンルは、3楽章ないし、4楽章構成の中では、それなりの起承転結はあるものの、
個別に独立しても構わないような、極端に言えば「曲集」である。
ところが、ベートーベンはここに思想的統一を持ち込む。
第1楽章で提起された問題は、第2楽章、第3楽章で、異なる角度から検討され、吟味され、
結論部である第4楽章へと引き継がれていく。
ベートーベンという楽聖が好んだ、
スケルツォ
という形式は、あまり笑えない。
ベートーベンは天才に過ぎて、私のような人間には、冗談が過ぎる。
それでもついていきたい音楽を生み出すのだから、本当に笑えない。
第2楽章、
「スケルツォ」は、第1楽章以上に激しく、せわしない闘争心に満ちている。
第3楽章では、
俗に「神の恩寵」と呼ばれるこの上ない優しさと慰撫にも似た音楽が奏でられる。
則ち、この第3楽章までに、人間、や人間を襲う困難と勇気に満ちた戦い、神による救いすら検討されるのだが、ベートーベンはそれらすべてに満足しない。
人間の尊厳(Hominis Dignitati)であろうか。
第4楽章で、真に感動的な場面は、西後の大合唱ではなく、冒頭である。
激しい導入を経ると、第1楽章から第3楽章までの主題が想起されるのだが、それらはそのつど、断ち切らてしまう。
ただ、戦いでも、救済でもない、人間が人間を愛することによって生まれる
「歓喜に寄す」
という人間賛歌が歌い出されたのである。
彼がみんなを巻き込む魅力が良くわかりましたよ。
こんにちは。
読んで下さりありがとうございます。
またコメントありがとうございます( ^_^)
小澤征爾さんの訃報と第9、考えさせられます。