横浜黒船研究会(Yokohama KUROHUNE Research Society)

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ペリーはサケに舌鼓

2020-04-13 21:36:30 | コロナ巣ごもりレポート

「ペリーはサケに舌鼓」

 

横浜黒船研究会会員 奥津弘高

条約締結以外の目的

 ペリー提督は1854年2度目の日本遠征で、3月31日に日米和親条約を締結し開港される下田と函館の検分に向った。25日間かけて下田の調査が終了すると、帆船3隻を函館(注)へ先行させ旗艦ポーハタン号に乗船し、蒸気船ミシシッピ号を伴い帆船の後を追い、5月17日函館湾に投錨した。

(注)榎本軍が降伏するまでは「箱館」と表記され、降伏後暫く、箱館と函館が混用された後、「函館」に統一された。本論では地理を分かり易くするため、現代の地名表記「函館」を用いた。

 

 ペリーは日本遠征の目的を条約締結だけに留まらず、鎖国政策のためほとんど知られていなかった日本について、生物学、地質学、鉱物学など様々な分野の調査も重要な任務と考えていたようだ。

 特にペリーは魚類と貝類の調査を自分の監督下に置き、日本特有の魚類の調査に力を入れた。しかし日米間の戦闘もありうる危険な日本遠征であると考え、魚類専門の学者は同行させていなかった。

 米国議会報告書として日本遠征後に刊行された『ペリー艦隊日本遠征記』の第2巻に、「日本産魚類図説」が掲載されている。

 魚を捕獲した直後の変色しないうちにカラーで正確にスケッチし、それぞれの形状の詳細な観察データを書き添え、収録した魚は60種にも及ぶ。

 ペリーは英国から出版されていた『日本動物誌(Fauna Japonica)』を参考文献としていたが、それに掲載されていない日本特有と思われる新種の発見がかなりあったようだ。

 中でも特にペリーが興味を持ったのは、函館湾で捕獲したサケ科の魚類であった。

 

 

函館湾の地引網

 乗組員たちは航海中、毎日塩漬けの肉とパンの食事に飽きていて、新鮮な野菜や魚を現地で調達しようとした。ペリー艦隊は地引網を持参していたが、海産物の標本採取と食糧確保の兼用であったのだろう。

 

 

 

 『ペリー艦隊日本遠征記』第1巻に函館湾の砂浜で地引網を引いている挿絵が掲載されている。

 

 タイトルは「箱館での漁獲」とあり、描いたのは記録係の絵師ウィリアム・ハイネである。

 

 河口の砂浜ではバーベキューの準備をしているのか、薪割りをする人やフライパンを持つ料理人、猟銃を片手に捕獲した鳥や獣を担いでいる人、川に船を浮かべ釣竿を使って魚釣りをする人、河口で地引網を引く人々などが描かれている。

 

 ペリーが米国議会に提出した地図「THE HARBOR of HAKODADI」(函館港)に、函館に来航した5隻の停泊位置と、サケなどを捕獲した川の名前が「Kamida Creek」(亀田川)と記されている。景色と地図から割り出すと、亀田川河口から函館山方向を見て描いた景色である。ペリー来航当時の亀田川は標高1108メートルの袴腰岳(はかまごしだけ)を水源に五稜郭の西を流れ、七重浜から函館湾(函館港付近)へ流出していた。亀田川からの土砂の流出により函館湾が浅くなり、その後河川の転注工事により函館の街中を南へ流れ、現在は津軽海峡に面した大森浜へ流路と河口が変更されている。

 

 

日本のサケは美味

 『A SCIENTIST WITH PERRY IN JAPAN』と題した植物学者ジェームズ・モロー博士の日記に、函館湾での地引網漁でサケが大漁であったことが書かれている。

 

「1854年5月19日

 グループで地引網を持って魚獲りに出かけた。・・・網を引くと立派なサケやマスがたくさんかかった。サケは一尾15ポンド(約7キログラム)もあった。この5ケ月間、塩漬けの食事ばかりであったため、今日の幸運はみんなにとって大満足だったし、何か違うものを食べたかったのだ。獲ったばかりのサケの味は、今までに食べたものと遜色なかった。」

 

 モロー博士は植物や温泉の調査のため、沖に停泊していた船から頻繁にボートで上陸した。6月1日付け同日記に「釣りの一団と同時に夜明け前に上陸した。・・・午後も半ばごろ釣りの連中と合流した。彼らは立派なサケをボートに満載になるほど獲って来たが、この魚獲りは大成功であった」と記す。

 

 食糧用にサケを捕獲するのであれば地引網を使用する方が効率的だが、あえて釣りでサケを獲ったということは、乗組員の娯楽であったと想像する。

 

 タックル(釣り道具)で魚を獲ったと日記にあるが、釣りに行った隊員はどんな道具で釣ったのであろうか。

 

 1653年アイザック・ウォルトン著の『釣魚大全』が川魚釣りの随筆として刊行され、欧米ではすでにフライフィッシングの釣法は確立されていた。

 

 ニューヨークでは、1829年にジュリオ・トンプソン・ピュエルによりルアーフィッシングで使うスプーンがすでに販売され、1852年には改良を加えたスプーンで釣具史上初の特許を取得したという。

 

 

キングサーモン捕獲

 前出の「日本産魚類図説」に、函館で捕獲したサケについて「マスノスケ」と紹介されているが、これは「キングサーモン」の和名である。

 

 正式名は「サケ目サケ科タイヘイヨウサケ属マスノスケ」であり、ペリーが暮していたアメリカ東海岸の河川や大西洋には生息していない。

 

 アラスカからカムチャツカ半島にかけての太平洋を中心に、オホーツク海、日本海北部などに分布し、佐渡島や東北地方以北の河川で捕獲された例がある。孵化後、海洋で1年から5年生活し、産卵のため再び生まれ育った川を目指して遡上する。

 

 

 

 

 ペリー艦隊の乗組員が函館で捕獲したのは5月中旬から6月初旬で、キングサーモンが産卵のため遡上する時期と重なり、河口付近に群れていたのであろう。

 

 『原色日本淡水魚図鑑』(保育社)によると「キングサーモンの移植は1872年以降に行われ、北アメリカ東部・南アメリカ・ヨーロッパ・オーストラリアなどの各地で実施されたが、定着したのはニュージーランド南島のみ」とある。

 

 絵師ハイネはサケの捕獲について「われわれが行った漁業の方は、平均して収穫が多かった。重さが15ポンドもあるサケを捕えたこともあったし、ある日にはバケツ30杯という大漁の成果を上げたこともあった。ただしこの時は美しいサケは2、3尾だった。」と日記に書いている。

 

 ペリー自身の日記『日本遠征日記』にも、「引き網によって大量の立派な魚を獲ることができた。最大の収穫は極上のサケとマス」であったと記されている。

 

 

ペリーの名を冠した魚

 ペリーが北海道で捕獲した魚に、ペリーの名前を冠した魚がいる。

この情報は2020年1月、ペリー提督の次兄レイモンドの4代目子孫である、マシュー・カルブレイス・ペリー博士(生物学者)から教授された。

 

 

 学名は「Parahucho Perryi」で、和名は「イトウ」である。

 

 1854年5月と6月に函館にてイトウを捕獲し、そのうちの一尾は体長33インチ(約84センチメートル)と記録され、写生図を米国に持ち帰った。

 

 ペリーがアメリカへ帰国後にイギリスの生物学会に報告したことから、1856年にペリーの名前を冠した学名がつけられた。

 

 「サケ目サケ科イトウ属」に分類される日本最大の淡水魚である。

 

 1メートルに成長するのに10年かかり、最大で全長1・5メートルにも達し、サケ科の魚としては長命であるが成長が非常に遅い。

 

 稚魚は水生昆虫を摂餌し上流部で過ごすが、30センチメートルを越える頃から魚類、両生類、川ネズミ、水鳥のヒナなども捕食し、生息域は河川の下流部や河口付近の湖沼に移行する。3月から5月に上流に遡上して産卵するが、生涯何度も産卵する多回産卵魚で、北海道北部沿岸には降海型の生態を持つものも生息する。

 

 ペリーの名を冠した生物は魚だけに留まらない。

 

 東京湾や函館湾で採取した貝類の学名にも、ペリーの名がついている種類を見ることができる。

 

 学名「Volutharpa perryi」と命名された「モスソガイ」は、ペリーが東京湾や函館湾から米国へ持ち帰った標本を友人のジョン・クラークソン・ジェイ博士に同定と考察を依頼し、博士が1856年に学会に発表した。

 

 貝の標本はスミソニアン学術協会のジョセフ・ヘンリー館長に連絡を取り、スミソニアン博物館に寄贈したという。

 

 

ニューヨークでサケの養魚場

 『ペリー艦隊日本遠征記』では函館で捕獲した魚類などについて次のように報告する。

 

 「水兵らはしばしば引き網で魚を獲ったが、サケ、ウミマス、ハタ、ホワイトフィッシュ、タイ、スズキ、カレイ、ニシン、キス、ボラ、その他様々な種類の素晴らしい魚が大量にあがった。我々が獲ったサケの大きさは、アメリカで獲れるものの半分ほどしかなかったが、味は勝っていた。・・・カニはかなり大きく、味のすばらしさはチェサピーク湾の有名なカニに匹敵する。」

 

 ホワイトフィッシュはペリーが住んでいたニューヨークを流れるハドソン川にも生息しており、キュウリウオ科の魚の総称であり、函館で捕獲したのはシシャモかワカサギであろう。

 

 日米和親条約の細則についての協議のため、ペリー艦隊が函館から下田に戻り滞在した時期に、小田原藩から警護のために派遣された武士が、交流のあったアメリカ人について当時を思い出して記録を残している。

 

 『六十夢路』(むそじのゆめじ)と題した覚え書きの文中には、著者の関重麿(せきしげまろ)がペリー艦隊の下士官から聞いたという興味深い話がある。

 

 

 

 

 「渡来セリ時一艦ヲ蝦夷ニ遣リ、鮭の卵数万粒ヲ捕漁シ本国ニ送リ、創リテ『ニユウヨーク』ニ養魚場ヲ設ケ其繁殖ヲ計画シタリト云フ」

 

 この聞き書きからすると、サケの卵を採取して米国へ持ち帰ろうとしたようである。しかし赤道を二度も通過して米国東海岸へ到着するまでに5ヶ月もかかった当時、サケの卵をニューヨークまで持ち帰ることができたとは思えない。

 

 もしニューヨークでキングサーモンの養殖が成功し、日本産の美味しいサケがニューヨーカーの舌をうならせていたら、きっとマンハッタンにペリーの立派な銅像が建っていたことであろう。