横浜黒船研究会(Yokohama KUROHUNE Research Society)

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ペリー提督と長久保赤水の日本地図

2021-07-23 06:54:20 | コロナ巣ごもりレポート

ペリー提督と長久保赤水の日本地図

 

著者 横浜黒船研究会会員 奥津弘高

 

 

日本の情報収集

 

 ペリーは日本遠征前から情報収集をするため、マサチューセッツ州ニューベッドフォードで捕鯨船や貨物船のオーナーとして活躍していた名士のジョセフ・C・デラノに何度も書簡を送った。

 1851年1月16日の手紙でデラノに情報提供を求めたのは、太平洋で捕鯨に携わっているアメリカ船の数とその価値、一隻あたりの船員数の平均、最も良い捕鯨漁場、太平洋沿岸における停泊港、長崎以外の港への入港、日本との交易や食糧補給の有無、これら地域の天候や危険などである。

 難破船2隻から日本人漂流者22人を救助し、送還のため1845年(弘化2)に浦賀を訪れたという捕鯨船マンハッタン号のマーケーター・クーパー船長からも、日本に関する詳細な情報を入手して欲しいと懇願した。

 デラノはクーパー船長からペリーへ日本に関する報告をするよう促し、1851年2月8日付けで船長からペリーに手紙が届いた。

 マンハッタン号が補給のために帰港したハワイのホノルルで、船長が語った日本人漂流者救助と返還に関する長文の記事が1846年2月2日発行のハワイの新聞「ザ・フレンド」に掲載されたが、この新聞もペリーの手元に届いた。

 

(ハワイ大学所蔵マイクロフィルム S50374 Volume 1~9 [THE FRIEND])

 

 

日本人が持っていた地図

 

 クーパー船長は救助した日本人が持っていた日本地図を見て愕然とする。

 「それには日本とその南の全ての島と北に江戸の一部が描かれ、縦横四フィートの大きさで、折りたたむと厚紙の表紙がつく教会の賛美歌集のようである。島は並外れて大規模に描かれており、明らかに正確な測量をした上で海岸線の細かいギザギザ、大小の港全てが書き込まれている。船長は船で航海して来て、この地図の沿岸が天文観測によって正しく線で描かれていること、自分の持っていた日本の海図が全面的に間違っていたことが分かった。」との船長の談話が「ザ・フレンド」紙に掲載されている。

 船長が伝える地図とは、長久保赤水(ながくぼせきすい)が作成した「改正日本輿地路程全図」であるが、測量によって作成された地図ではなかった。

 水戸藩の農家に生まれた長久保赤水は、各地を旅して磁石を用い計測するなど若くして地理学に目覚め、1779年(安永8)に「日本輿地路程全図」を完成し1780年大阪の書店より発行した。それまで一部の支配者のものでしかなかった地図を庶民のものにしたことで、赤水は日本地図の先駆者と呼ばれ、日本の地理学者として近世史に不滅の足跡を残しその名を全国に広めた。

 赤水地図は発行からから明治時代までの約100年間に、8版を数えるベストセラーになった。

 この地図は長崎出島からオランダに伝えられ、あのシーボルトも日本から持ち出しライデンに保存されているが、広く世界各国に流布した。

 

(高萩市教育委員会ホームページより)

 

 

赤水地図のその後

 

 クーパー船長に助けられた日本人漂流者は赤水地図をマンハッタン号に残したまま浦賀で下船した。

 平尾信子氏の著書『黒船前夜の出会い』にはその後の赤水地図の行方について、「地図は難破した千寿丸から異国人の手で捕鯨船に移され、漂流民を日本に送り届けた時に彼らが捕鯨船に置いていった日本地図をクーパー船長が持ち帰り、船長宅の屋根裏部屋に眠っていたが後に再発見され、現在はマサチューセッツ州ニューベッドフォードの捕鯨博物館に所蔵されている」と日本人から同博物館にたどり着いた経緯が書かれている。

 

 ペリーとデラノが文通した書簡の確認、ペリーの動向を報じた地方新聞の調査、漂流民が持っていた日本地図はどれほど正確であったのかに興味を持ち、筆者は2012年ニューベッドフォード捕鯨博物館へ2度目の調査に訪れた。

 学芸員の協力により、額装されて大切に保管されていた長久保赤水の日本地図を倉庫から搬出してもらい、現物を検証することができた。

 クーパー船長の談話記事では、地図の大きさは「縦横四フィート」と報じられているが、実測したところ縦80㎝横127㎝の長方形で、持ち運びに適した携帯しやすい大きさになるよう折り目があり、折りたたむと縦は3分の1の約27㎝、横は8分の1の約16㎝になる。

 地図余白の凡例に「曲尺一寸ヲ以テ道程十里ニ準ズ」と書いてあることから、縮尺129万6000分の1である。地図上に描かれた記号の説明とともに「長玄珠子玉(はるちかしぎょく)父 製」と書かれており、長久保赤水が作成し彩色刷りで木版印刷された「改正日本輿地路程全図」であると確認できた。

 この地図は何度も改訂され通常は地図左下に発行した年号が印刷されているが、同博物館所蔵の地図には年号も「改正日本輿地路程全図」のタイトルの記載もないことから、江戸時代後期に広く普及したとされる模倣版であると思われる。

 この地図には南北線と東西線が描かれているため、経緯線が記入されていると誤解されていることがある。このうち東西線には緯度が記入されているが、南北線には何も数値が記入されていない。双方の線は同じ間隔で直角に交わり囲まれた四角形は正方形を成している。日本列島の位置する中緯度では、経度一度の間隔は緯度一度の間隔より狭くなる。従ってこの地図に描かれた南北線は方角を表す線で経線ではない。

 当時の日本の天文学知識によると緯度を測定するのは容易であったが、経度を測定するのは至難であったという。

 この地図は地名が詳細に書かれているので旅行に便利であったようだが、港を結ぶ航路も描かれていることから、海図として沿岸航海にも使用されていたと想像する。

 赤水地図から42年後に伊能忠敬の実測地図「大日本沿海輿地全図」ができたが、それは国家秘密として江戸城内に保管されて出回らなかった。

 シーボルトが伊能地図を複写して日本地図をヨーロッパで発表し、オランダ語に翻訳されて出版されたシーボルト著『NIPPON』を日本語に翻訳して以降、伊能地図が一般人の目に触れるようになった。

 

 

ペリー艦隊が採用した海図

 

 1852年1月ペリーは東インド艦隊指令官の就任内命を受け、いよいよ待ちに待った日本遠征の出番がまわってきた。

しばらく文通が途絶えていたデラノへの手紙の内容は、急に日本遠征の現実味を帯びてくる。

 

(鯨油の樽が並ぶニューベッドフォード港 1860年頃 捕鯨博物館蔵)

 

 1852年2月2日のデラノ宛の手紙で「ニューベッドフォードでペリー艦隊への新兵募集が可能であるか」と質問した。1850年代米国捕鯨は最盛期にあり船員募集に応募する多くの船乗りがこの地に集まっていたからであろう。

 

 1852年3月3日ペリーは郵便蒸気船総監督官を解任され、3月24日正式に東インド艦隊総指揮官として日本遠征を命じられた。

 1852年3月18日のニューベッドフォードの地元新聞「ザ・リパブリカン・スタンダード」に日本遠征艦隊のリストが掲載され「ペリー提督率いる東インド艦隊の艦船は、蒸気船ミシシッピ、サスケハナ、スループ戦艦セントメリー、プリマス、サラトガ、輸送船サプライ」と報じられた。しかし公表された戦艦セントメリーは日本遠征に参加しなかった。

 ペリーは4月27日ボストン発デラノ宛の手紙で「7時20分の始発の汽車か次の11時発の汽車で出発し、直接あなたのお宅に向います」と、訪問の予定を伝えた。

 5月6日付けの「ザ・リパブリカン・スタンダード」紙は「捕鯨船の船長から日本沿岸の情報収集をするため、先週J・C・デラノの招きでペリー提督がこの町を訪れた」と4月末のニューベッドフォード訪問を報じている。記事にある捕鯨船の船長とはマーケーター・クーパー船長と思われる。

 日本遠征に使用する日本付近の地図や海図を収集していたペリーは、長久保赤水の日本地図をデラノ宅で確認したはずであるが、ペリー艦隊が公式に使用する海図には採用されなかった。

 ペリー艦隊が遠征で採用した江戸付近の海図は、シーボルトがヨーロッパで出版した『NIPPON』に添付された日本地図である。

 ペリーはシーボルトの日本地図をニューヨークの図書館から入手し、日本遠征に使用したことが判明した。日本遠征直前に従軍画家ハイネがシーボルトに送った書簡に書いている。ボン大学名誉教授と所蔵先のシーボルト末裔のブランデンシュタイン城文庫のご協力で、筆者はシーボルトとハイネが文通した、4通の書簡コピーの全文を入手できた!!