今朝の新聞で画家の岡田嘉夫さんの訃報を知った。
亡くなられたのは1月31日だという。
86歳。
田辺聖子さん、皆川博子さん、瀬戸内寂聴さん
などの小説に華麗な表紙や挿絵を提供しておられた。
橋本治さん、さねとうあきらさんなどと組んだ
「歌舞伎絵巻」も怖いほど華やかだった。
ある時から私とも仕事の接点があり、以来、
親しくさせていただき、新聞小説の挿絵も
描いていただいた。
「夢幻美女絵巻」という、ある雑誌の連載でも
ご一緒させていただき、オールカラーの文庫本になった。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3c/33/74655621bfc24c6f43e2109d525c9597.jpg)
いただく郵便はいつもユニーク過ぎるものだった。
ある時など、下駄が片方、ポストに入っていた。
あちこちに切手が貼ってあり、住所も通信文も
ちゃんと書かれていた。
こういうふうにしても郵便は届くのだと驚いたものだ。
まだ、ちょんの間街だった黄金町の飲み屋へも
一緒に行った。
どこで待ち合わせをしても一目でわかった。
すらりと背が高く、シャツも帽子もサスペンダー付きの
ズボンもカラフル。
だけど画家だから色彩感覚は抜群。
どれだけの色を合わせても、ばっちり決まっていた。
京都や長野へ、数人で一緒に旅したこともある。
「外国旅行しようよ。既存の旅行案内なんかつまらないでしょ?
大人ならではの旅行案内を一緒につくらない?」
と、よく言われた。
でも、虚弱な私が、岡田さんのタフな行動力に
ついていけるはずもない。
それは実現しないままに終わった。
東日本大震災の後、「関東は怖いから」と
生まれ故郷である神戸に移られた。
「四国のお寺で屏風絵を頼まれたの。どんな絵を
描いても構わないというから、ハイヒールの退廃的な
美女を描きまくって来たよ」
という電話があったかと思うと、東京で落語のプロデュースを
なさったりと、深い教養あらばこその八面六臂。
しばらく連絡が途絶え、心配していたら
奥様が病気という事情で夫婦して神戸のケアハウスへ入居なさっていた。
昨年電話で話した時もほんとにお元気だった。
「うちの奥さんに問題が出てから、夫婦で入れる老人ホームを幾つも
探したの。でも高いお金払って倒産でもされたらどうしようもないでしょ?
それで行政に相談したんだけど、だめだよ、話にならない。
結局、自分で捜してここへ入ったの。奥さんの面倒をみてくれて
僕はたまに出かけて、外でおいしいものを食べてこられるんだから快適だよ」
コロナ禍が収まったら、必ず神戸に行きますと約束した。
岡田さんは神戸で、洒落心のある高齢男性に、自分が
デザインしたカラフルなシャツを着せ、ケアハウスの若い
男性ヘルパーの手を借りてサイトにその写真もアップしてらした。
亡くなる二日前にも写真と文章がアップされている。
ケアハウスの男性ヘルパーに、今朝、電話をした。
「二か月くらい前からだいぶ弱ってこられて……。
自分は写真と文章をお預かりしてたので、それをアップしてたんです」
遊びをせんとや生まれけむ
戯れせんとや生まれけむ
「梁塵秘抄」のこの言葉はさまざまに解釈されるが、
この世のおもしろさも残酷さもよく承知しておられた
岡田さんこそ、このように生きてこられたのではないだろうか。
「出版関係のパーティーで久しぶりに東京へ行ったら、
ぼくのことなんて、編集者はだ~~れも知らないの。
でも世代交代はあたりまえだからね。なんか新鮮だったよ。
仕事じゃなくてもおもしろいことはいくらでもあるんだから
生きてる限り、思いっきり遊ばないと損だよ」
あの声が、耳の奥から甦り、私を元気づけてくれる。
はい、岡田さんのような才能も行動力もありませんが、
私なりに楽しんでますよ。
新幹線では行けないほど遠くへいらっしゃいましたが
そのうち、「やっこらさ」と私もまいります。
「やっと来たねえ、こっちも捨てたもんじゃないよ、さ、遊ぼ!」
と、相変わらずユニークなファッションで迎えてくださるに違いない。
亡くなられたのは1月31日だという。
86歳。
田辺聖子さん、皆川博子さん、瀬戸内寂聴さん
などの小説に華麗な表紙や挿絵を提供しておられた。
橋本治さん、さねとうあきらさんなどと組んだ
「歌舞伎絵巻」も怖いほど華やかだった。
ある時から私とも仕事の接点があり、以来、
親しくさせていただき、新聞小説の挿絵も
描いていただいた。
「夢幻美女絵巻」という、ある雑誌の連載でも
ご一緒させていただき、オールカラーの文庫本になった。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3c/33/74655621bfc24c6f43e2109d525c9597.jpg)
いただく郵便はいつもユニーク過ぎるものだった。
ある時など、下駄が片方、ポストに入っていた。
あちこちに切手が貼ってあり、住所も通信文も
ちゃんと書かれていた。
こういうふうにしても郵便は届くのだと驚いたものだ。
まだ、ちょんの間街だった黄金町の飲み屋へも
一緒に行った。
どこで待ち合わせをしても一目でわかった。
すらりと背が高く、シャツも帽子もサスペンダー付きの
ズボンもカラフル。
だけど画家だから色彩感覚は抜群。
どれだけの色を合わせても、ばっちり決まっていた。
京都や長野へ、数人で一緒に旅したこともある。
「外国旅行しようよ。既存の旅行案内なんかつまらないでしょ?
大人ならではの旅行案内を一緒につくらない?」
と、よく言われた。
でも、虚弱な私が、岡田さんのタフな行動力に
ついていけるはずもない。
それは実現しないままに終わった。
東日本大震災の後、「関東は怖いから」と
生まれ故郷である神戸に移られた。
「四国のお寺で屏風絵を頼まれたの。どんな絵を
描いても構わないというから、ハイヒールの退廃的な
美女を描きまくって来たよ」
という電話があったかと思うと、東京で落語のプロデュースを
なさったりと、深い教養あらばこその八面六臂。
しばらく連絡が途絶え、心配していたら
奥様が病気という事情で夫婦して神戸のケアハウスへ入居なさっていた。
昨年電話で話した時もほんとにお元気だった。
「うちの奥さんに問題が出てから、夫婦で入れる老人ホームを幾つも
探したの。でも高いお金払って倒産でもされたらどうしようもないでしょ?
それで行政に相談したんだけど、だめだよ、話にならない。
結局、自分で捜してここへ入ったの。奥さんの面倒をみてくれて
僕はたまに出かけて、外でおいしいものを食べてこられるんだから快適だよ」
コロナ禍が収まったら、必ず神戸に行きますと約束した。
岡田さんは神戸で、洒落心のある高齢男性に、自分が
デザインしたカラフルなシャツを着せ、ケアハウスの若い
男性ヘルパーの手を借りてサイトにその写真もアップしてらした。
亡くなる二日前にも写真と文章がアップされている。
ケアハウスの男性ヘルパーに、今朝、電話をした。
「二か月くらい前からだいぶ弱ってこられて……。
自分は写真と文章をお預かりしてたので、それをアップしてたんです」
遊びをせんとや生まれけむ
戯れせんとや生まれけむ
「梁塵秘抄」のこの言葉はさまざまに解釈されるが、
この世のおもしろさも残酷さもよく承知しておられた
岡田さんこそ、このように生きてこられたのではないだろうか。
「出版関係のパーティーで久しぶりに東京へ行ったら、
ぼくのことなんて、編集者はだ~~れも知らないの。
でも世代交代はあたりまえだからね。なんか新鮮だったよ。
仕事じゃなくてもおもしろいことはいくらでもあるんだから
生きてる限り、思いっきり遊ばないと損だよ」
あの声が、耳の奥から甦り、私を元気づけてくれる。
はい、岡田さんのような才能も行動力もありませんが、
私なりに楽しんでますよ。
新幹線では行けないほど遠くへいらっしゃいましたが
そのうち、「やっこらさ」と私もまいります。
「やっと来たねえ、こっちも捨てたもんじゃないよ、さ、遊ぼ!」
と、相変わらずユニークなファッションで迎えてくださるに違いない。