最後に無事幕を閉じた。展示、まちあるき、謎解きトークショー、日曜日ごとの解説で、
横浜のおもしろさを少しでも知っていただけたのではないかと自負している。
展示の片付けも終わり、夕暮れの野毛を打ち上げ会場に向かいながら、この町に
馴染み始めた頃のことを懐かしく思い出した。
野毛大道芸フェスティバルの出し物のひとつだった「大道芝居」。
文字通り、大道に仮設舞台を造って芝居をやるのだが、役者は年齢も職業もさま
ざまなアマチュア。内容からして「荒野の七人」と「白雪姫」のミックス、なんて
いうわけのわからないものだったが、馬鹿なことを大人が真剣にやる楽しさをこれ
で知った。同時に、横浜という街、そこにいる人々にはまった。
その前から横浜市民だったし、横浜を舞台にした小説も書いていたが、この時が
私にとって本当の意味での横浜元年だった。
初めて野毛大道芝居に出演したのは1996年だったと思う。
私は「森の石松がいまわのきわに見る幻想の女」という役。石松役は昨年亡く
なった評論家の平岡正明さんだった。
私はロングドレスにピンクの安っぽいかつらをかぶり、歌いながら客席から登場する。
歌は、これもいまは亡きシャンソン歌手、永登元次郎さんに教わった、哀しい娼婦の
シャンソン「遊ぼうよ、ビアン・ムッシュ」。
その頃、夫はまだ入院していなかった。癌も発覚していなかった。
ちょっと聴いてみて、と家のリビングで歌った。
「う~ん、くたびれたベテラン娼婦なんだろ? おまえの歌い方じゃあ、若葉マークの
娼婦だよ」
と、夫に言われた。
かといって突然、けだるい色気がだせるはずもなく、若葉マークのまま出演した。
大立ち回りを演じて舞台から転がり落ち、頭を打って意識朦朧となった平岡さんと、
初舞台で上がりまくっていた私と、二人揃って地に足がついてない状態でワルツを
踊ったものだ。
それから十年間にわたって、4月になると桜で満開の野毛山へ、大道芝居の稽古に
通うようになった。
初めて私が大道芝居に出た直後、夫は末期癌の宣告を受け(本人は最後まで知りた
がらなかったので言わなかったが)、私は着替えなどの重い荷物をぶら下げ、病院と
家の往復が始まった。
私自身も体調を崩し心身ともにもう限界だと思う日々だったが、救ってくれたのは
「横浜」だった。
野毛で知り合った人々は、慰めも励ましも口にしなかったが(基本的に私生活には
お互い立ち入らなかったし)、でもいつも楽しいこととに誘ってくれた。
あれ以来ずっと、私は横浜にやさしく遊んでもらってるという気がする。
だから「横浜」を、光も闇も平等に、自分のできる方法で伝えていくこと。
それがこの街や人に対する私なりの恩返しだと思っている。
写真は野毛大道芝居のひとこま。チマチョゴリ姿は、私とエッセイストの朴慶南さん。
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