陽出る処の書紀

忘れないこの気持ち、綴りたいあの感動──そんな想いをかたちに。葉を見て森を見ないひとの思想録。

夜の公園でひとりブランコ

2023-08-17 | 感想・二次創作──神無月の巫女・京四郎と永遠の空・姫神の巫女

いまではほとんど子どもたちにすら顧みられない、街場の小さな公園ははたして何のために存在しているのだろうか?

おそらく私とほぼ同年齢ぐらいのペンキのはげかけた遊具、草だらけの砂場。絡みついた藤棚。空き缶ステーションには缶があふれ、けれども、ときおり誰かが清掃しているのか、思ったほど不衛生な状態ではない。

近所にあるとあるオブジェのある公園に、金曜の夜迷い込んだ。
何を思ってか、そこに通いたくなったのだ。朝の日課だった遠くのスポーツ公園への散歩はもうしなくなった。最近、図書館で息切れしてしまい一時間ほど帰れなくなったからだった。それでも職場へは意地でも出勤しているのは、仕事を失いたくない私のプライドのなせる業。

ある映像作品の一部が色濃く脳内に焼き付いて、そのままにそのすがたを再現してみたくなる、ということがある。昔の昭和風の景色をミニチュア模型にするジオラマのようなものなのだろうか? ヲタクの聖地巡礼のようなものだろうか? いや、再現したいのは環境でも空間でもなかった。その主人公の心もちなのだった。

黒澤明監督の映画「生きる」には、余命数箇月を宣告された市役所職員の中年男が、ブランコに乗る場面がある。私が再現したかったのは、まさにそれだった。
男は人知れず公園の整備に奔走するが、死後、彼の業績は他人の手柄になってしまう。彼を最期の偉業に駆り立てたのは、もと市役所職員でいまは町工場で生き生きと働く女性の言動からだった。だが、この映画のラストがどうだったかまでを覚えていない。ただ、初老の男の目に涙を浮かべた顔のクローズアップがやたらと印象的だった。その映画を観た時の私はなぜこの部分だけを鮮明に覚え、かつまた、いま古びた写真を抽斗から抜いてくるように浮かび上がらせたのだろうか。こうした奇妙なデジャブというか、人生の悲喜劇の先取りを、フィクションの世界にかいま見ることが、この年になって多くなったわけだ。

ブランコといえば、漫画「姫神の巫女」にも登場する。
たがいに殺し合う運命の、宿命の巫女であるふたりの少女が疑似恋愛的なつきあいをする。媛子は千華音と相並んでブランコに腰掛け、友達と遊ぶこと、未来の楽しい予定を計画して胸をときめかせることが自分の生きがいだったと語る。それは千華音を油断させるための方便でもあったが、同時に媛子の忌憚のない真意でもあった。その言葉は千華音の冷たい決心を徐々に氷解させていくまたとない楔となるのだ。

夜の公園には誰もおらず、もちろん、ブランコの片方には、私が声をかける相手もいない。
何を思ってかこの公園へ誘われたのか。そういえば、会社勤めでない時は、この公園によく出かけていたのだった。過去とてもストレスのたまる職場を辞めてから、真昼間、ベンチに座っていたら、あまりの明るさと風の心地よさにうっとりしてしまったことがある。終日、オフィスに缶詰めにされているから気づかなかったのだ。だからといって、毎日、そこに腰掛けるような人生は送りたくはなかったのだ。死ぬほど退屈なのだから。

私は毎朝、その公園の横をすりぬけて、会社へ向かう。
帰りもたいがいそうである。何がしかのイベントがあると人が集まって大騒ぎになるその場所は、ふだんは恐ろしく静かで人の気配がない。恐竜に喰われていなくなったのかと思うほどだ。なのに、ボランティアが花を植えているせいか、そこそこ整っているのだ。人の気配がないのに、手入れされた実績だけはある。見えない人の働きがそこに残されている。それこそが、自分以外の他者がこの世界に生きていて、街が誰かの手で動かされていく証拠なのである。こうした真理を部屋にこもりきりでネットばかり見ていると気づけない。

街場の隙間にある公園はなんのためにあるのだろうか?
高度成長期に団地が多くつくられたのと同様、育ちざかりの子どもたちの憩いの場、お喋り好きな母親たちや、陽気な犬飼いたちの社交場として、その場所は存分に機能していた。しかし、今はその面影もない。こうした公園は多くのハコモノ文化施設と同様に、行政の無駄遣いだったのだろうか?

だが、公園には、いまだ公園の役割があるのだ。
緊急時には水が通り、家族の避難場所の目印にもなるだろう。退職者が生きがいを得るための除草作業も待っている。疲れた営業マンが車をとめて眠っていたりする。大人がかつての遊び場を懐かしむために、そこは残されている。ほどよい自然の樹木や草花はビオトープにもなっているだろう。

幸いなことには、この街では、公園に寝泊まりせねばならないホームレスはいなかった。
けれども持ち家があるにもかかわらず、どうしても帰りたくなくて、公園にとどまりたい人もいたのではなかろうか。今の私のように。

人生に迷ったときに、日常の側ちかくに異空間が必要なのだ。
遊園地のように経済のにおいがいする娯楽でなくともいい。大人になっても気恥ずかしくなく、誰でも出入りが許されるような素朴な遊びの場が。そこでは、私はなにも役割を期待されずに、ただ佇むことが自分に許される。

私は志村喬が演じる男のように、ブランコに揺られたからといって、何か世に役立つ仕事にとりかかりたいと決意したわけでもなかった。姫神の御神巫女たちのように、がんじがらめの義務から脱け出すために、希望にあふれた明日の予定を数え上げたわけでもなかった。

ただそれでも、私は今後も何となく、そのブランコの席にふらりと座り続けるのだろう。
前後に揺られてただからだを軽くすることで、椅子に座りっ放しの日常をほぐしていくために。その小さな、誰もそこを通らないわびしい公園が、私には必要だったのだ。ブログに何かを書き続けるだけでは晴れない気分をどこかに捨てるため、ただそれだけのために。

「こんなことをして何が楽しいの?」という、千華音の問いかけに、やんわりと媛子はこう語る――「ベッドで今日の良いことを思い出して、明日出会う良いことを空想しして」「ウキウキして、ドキドキして、ワクワクして」「ああ楽しかった、明日も楽しみだなって」。とてもではないが、16歳に自分の死が確実にさだめられている者のいう台詞ではないだろう。すくなくとも、その命を奪うことを約束している千華音には、その台詞に感化されたものがあったのだ。

とても何気ないシーンなのだが、だが、ふとした瞬間に思い出しては胸があたたかくなるワンシーンでもある。
実はこのシーン、原案のウェブノベルにはなく、漫画オリジナル。ウェブノベルにあったとしたら、わりと植竹さん節のどこか悲哀めいた詩文調になったはずで、すこし趣きが変わっただろう。媛子の太陽らしさがよくあらわれた演出でもある。

私はこうした胸に暗黒が広がりそうなときに、死の恐怖におびえたときに、強風にめげずに花を咲かせるような春の心地に自分を鍛え上げたことがあっただろうか、と。私はそのとき、こんな他愛のない二次元のキャラに学んでしまったのだった。



【画像出典】
漫画『姫神の巫女』第三巻(漫画原作:介錯、原案:姫神の巫女~千ノ華万華鏡~、電撃コミックス、2021年12月)



(2023/07/30)











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