剣神・天叢雲剣(アメノムラクモノツルギ)が、消えた――?!
いや、なくなったのではなかった。
あたりがうす暗いせいだけではなかった。長い睫毛が細雪に濡れるのを、しきりとしばたたかせる。目を凝らしてみると、紅ぐろくこわばった機体らしきものは認められる。周囲には麻で編んだしめ縄をめぐらしてあったはずだが、それも見あたらない。誰かに結界を壊された…? いや、そんなはずはない。ここには、神無月の巫女の私たち、ふたりだけしかいないはず。
血染めになった機体――まさか、私がオロチ化させたあの武夜御鳴神(タケノヤミカヅチ)…?!
いや、そんなことはありえない。そもそもこの巨体の影は、あの武神らしき角張った輪郭をもってはいない。色あいは似ているが…。
ぎぃぃと金属がかしいで、雪の中にどすんと落ちた音。
あわてて近寄ると、パリパリとかさぶたのように表面が削れている。
海際に放置していた古い漁船さながらに、血を思わせるたいそう不気味な染みがひろがっているのだ。剥がれた一部が砂のようにこぼれ落ちている。そして乾いた枯れ葉のように、それがちまちまと飛び散っているのだ。さきほど頬をかすめたのは、この破片であったのか。信じられない、あの雄々しく黄金にかがやいたこともあったアメノムラクモが…!!
数日前までは銀世界によく映えたその機体は、無惨にも酸化していたのだった。
月のある極地には微量ながら氷が存在し、酸化鉄のような物質が認められるという報告がある。これは地球から吹き流しにされた磁気にのって酸素が月にたどりついたとか、地球が太陽風をさえぎるためであるとか、科学的に考えられている。太陽風は水素をふくむので、酸化鉄を鉄に還元してしまうはずだからだ。残念ながら、いま、この月面に吹き荒れる風は太陽風ではない。
驚くべきことに、空気も水もないと考えられていた月にも、いのちを育む要素がわずかにあるのだ。
月の表面を多く占める鉱物には酸素原子が豊富にふくまれているのだが、あいにく生きものが呼吸できるかたちではない。この酸素を抽出できる技術開発はまだ先の話だが、いずれにせよ、月にも鉄錆が発生しているのである。
「まさか、私たちが雪を積もらせたせいで…?」
雪国ではとりわけ車が錆びやすい。
それは凍結防止剤に塩分が含まれているからだと言われている。比較的温暖ではあるが、冬は雪が多く曇りがちな裏日本にある天火明村でも、農林業の担い手や走り屋たちは愛車の手入れに余念がない。田舎では自動車は命綱だからだ。大旦那さまや大事なお嬢さまの通勤通学に支障をきたしてはならじ、と冬になると姫宮家お抱え運転手が寒さに震えながらタイヤの入れ替えを怠らなかったことを思いだす。月の社に越してきたばかりでは忘れていた現世の日々の記憶が、このごろ、あふれ出るようによみがえるのはなぜなのだろう。
では、月ではどうか?
ほんらい、月の大地にはそもそも塩化ナトリウムなどは含有されていないはず。しかし、月の満ち欠けは地球での潮の満ち引きに影響を及ぼしている。満月のときは引力が強くなり海を引っ張り上げるので、塩のうまみが前面ににじみでてしまう。新月ならば、しょっぱさは控えがちになるが、潮の香りが強くまろやかな味になる。姫宮邸で供される食事でも日本海で採取した塩の風味にはこだわっているので、料理番だった侍女長の如月乙羽に任せてあったし、その違いは千歌音の舌がよく覚えている。
雪雲をめぐらせるために、うっかり地球の海水がこちらに引っ張られでもしたのだろうか?
月面は乾燥ぎみで湿った雨はとかく降りにくい。冷たい水分はそのまま雪になって落ちてくるだろう。こんなにも広く塗りこめるように地面に敷きつめられたから、神機を脅かしてしまった? そもそも、われらが駆るこの神機とは錆にも脆い、そこたしの鋼と並ぶなまくらの金属であったのか。そうであれば、地を揺るがすような爆発的なエネルギーを放出できるはずもない。
月は地球にひっぱられ、地球も月を親しく寄せている。
色かがやき、大きさのまちまちに生まれてきた星々はめぐりあい、たがいに干渉しあってなお譲りあい、人類の知の及ばぬ空に美しい軌道を描いてきた。おそらくひとの生き死にさえも、天体の作用が導いていたとしてもおかしくはない。月に昇天したとしても、あの地上の呪縛からは逃れられない。自分たちはもはや肉をもたない存在だと思っていたのに、自然界の摂理からはずれたわけではないのだ。
錆が生じたアメノムラクモの真正面にあるのは――紅い輪郭をもった陰った星。
太陽の前を地球がふさいでいるのだろう。地球と月はこのうえなく接近している。千歌音はおもわず息をのんでしまった。
「まさか、紅い月の正体は…」
【神無月の巫女二次創作小説「花ざかりの社」シリーズ(目次)】