最近「親ガチャ」という言葉をネット界隈でよく耳にします。
自分の人生がうまくいかないのは、生まれついた親が悪いから。実家が太くなければ豊かに生きられない──そんな諦念が若者たちのあいだに蔓延しているそうです。
これに対する反論として挙げられるのが、子は親を選べないが、しかし、親だって子を選べない、です。
習い事や塾に通わせ、お受験もさせ、旅行に連れて行ってやり、欲しいままにゲームを与えてきた。なのに、親が望む志望校に受からない、エリート企業に行けない、高給取りになれない、などなど。投資したのに、リターンがないという態度。子どもは先物商品ではないのに。
この考え、私が思いますに、現代だけのものではないでしょう。
生まれついた時代が悪かっただとか、家が貧しかったから苦労したとか。その逆で裕福な家に生まれたけど、不肖の息子になったとか、あばずれ不良娘になっただとか。そういうお話は歴史上、洋の東西を問わずにどこにでも転がっていました。
ただ、こうした悲観論が広がりやすいのは、この現代では他人の暮らしぶりがネット上では見えやすいからです。
高校生でも、田舎で親が働きづめの商売人の子と、大都会の医師や大学教授の家の子とでは、まるきり見えているものが違うでしょう。同じアニメのファンだからとSNSでつながっていても、なんとなくズレは生じてくる。悲しいことに。私が子どもの頃はよそのご家庭の暮らしぶりなんて注目していませんでしたし、教科書にあることや、テレビ番組や、みんながみんな、ほぼ同じものを見ていたせいか、気にならなかったものです。芸能人のきらびやかさは向こう側の世界で、自分とは縁がないし、それを羨ましいと考えたこともありませんでした。今の子は若いうちからアイドルで売れたり、クイズ番組に出たり、将棋やスポーツ界のスターがいたり、同世代の有能さが目につくので期待を背負わされすぎなのでしょう。そこはかなりしんどいはずです。
私は最近、NHKで「アンという名の少女」というドラマを観ました。
モンゴメリの有名な少女文学『赤毛のアン』を現代風に新解釈をくわえた海外ドラマです。その昔、世界名作劇場だかのアニメで観たときはつまらなく感じたのですが、大人になってから見ると、違った視座を与えてくれました。
アンは年老いた老姉弟に引き取られますが、孤児院育ちで夢想家、おしゃべり好きなゆえに、なんどもコミュニティから疎外されます。養母には窃盗を疑われ、学校では学友からは仲間外れにされ、教師からは虚仮にされ不登校に。お嬢さま育ちの親友の両親からは交際を禁じられる。しかし、持ち前の機転の良さを生かしたアンは、学友の家の火事の延焼を防いだことで、信頼をかちとっていくのです。最初にアンに居場所を与えたのはマシューおじさんでしたが、親友のダイアナをはじめ、交友関係をひろげたのは、権威やお金に媚びないアンの実直な人柄ともいえます。こういう名作文学にいるような少年少女、いまのアニメや漫画ではあまり描かれませんよね。だから「鬼滅の刃」みたいな昔ばなしに出てきそうな少年の物語が大ヒットしたのでしょう(描写がグロいのが玉に瑕だけど)。
たしかに、人生で成功するためには才能の遺伝、実家の経済力や人脈が後ろ盾になることはあるでしょう。政治家もそうですし、会社経営者や歌舞伎界など、二世三世が多いもの。親が公務員のほうが、お役人になるアドバンテージになる。資産家の家に生まれついたら、不労所得で暮らせるかもしれない。それは身もふたもない事実です。でも、そういう家庭にはそれなりの旧弊なしきたりや煩わしい人間関係があるものです。オーナー企業の次期社長になっても経営ができなければ、株主総会で退任させられますし、そもそも会社を潰すでしょう。医師が儲かると思っている方は、医学部受験がどれだけ大変か、なのに研修医時代は掛け持ち貧乏で30歳ぐらいまで独立できないこと、医師になっても24時間勤務体制でホスピタリティがないと務まらないこと、などなどその職がどれだけ苦労して成り立つものなのか、想像されたことがあるのでしょうか。
今の若い人に限りませんが、成功というものを、名前が売れてなんでも好きなだけ買えて、自由に時間をつかえる、なんとなく雑駁にそんなふうに考えているのではないでしょうか。自分が努力をしなくても、いい会社に入れば、高学歴で金持ちの子と結婚したら、有名人と懇意になれば、自分の格があがると安易に考えているふしがある。でも、それは相手がたが努力して得たもので、果たしてあなたの勝ち取ったものではありません。頭のいい人ほど、そういう安っぽい価値観で縁をつなげてこようとするのを嫌います。
私の親は独立するときに親に資金援助されていませんし、私自身も国立大学進学も奨学金や授業料免除でまかなっています。そのあいだに親族が何人も亡くなって絶望を抱いたことなど一度や二度ではありません。
博士課程進学はあきらめましたし、望んでいた職種への就職もかないませんでしたが、それは氷河期だからではなく、その狭い世界で通用するだけの自分の実力がなく、また傾向も違っていたと感じています。
海外旅行にいけるほど裕福な家庭で育ち、仕送り十分で私大に通い、留学もさせてもらえたのに、親と仲たがいして上京した同級生もいます。教育委員長の娘なのに、学生時代に年上の男とできちゃった結婚をしてしまい、逆にいまはその老いた夫を経済的に支える羽目になった女性もいます。どれも、そのひとが選びとった人生なのです。
なんだかんだ、日本は悪い! 遅れている! と言われていますが。
日常的に政治テロや戦争に巻き込まれず、清潔な水が飲め、義務教育が受けられ、食料品が買えて、五体満足でいられるというのは、それだけで幸せなことではないでしょうか。戦時中や戦後は食糧難で治安が悪かったと聞きますから。学校で殴られるのも当たり前でした。でも、体罰が悪い、子どもにはいい環境を、と声をあげたひとがいたおかげで、今の環境がある。そのあたりまえのありがたさを、若い頃は噛みしめないものですよね。私だって、そうでした。
生まれた親が悪かった、家庭環境に恵まれていない、受け継いだ才能が乏しい。
けれども、あるきっかけで人生が好転したかたもいます。たとえば、メンターといえるような人とので出会い。親きょうだいが頼れないのなら、自分でそういう相手を見つけ、親交を結ばなくてはいけない。けれど、学ぶことが嫌いで、いつも世に不平を唱えてばかりで、自分の心に化粧をしようともしない人間にそういうひとは現れてくれないのです。勤め先に恵まれないと嘆いている私自身もそうだと思いますから。
自分に才能がなければ、ある人の力を借りればいいが、そういうひとは横暴であったり、礼儀正しくなかったり、お金に汚かったりするひとのためには動きません。
平凡なひとほど、恵まれていない人間ほど、自分のメンタルを整えておかないといけない。そうしないと運が向いてこない。これは、中年になってやっと私が学んだことです。
自分をつくりあげるものは自分で選びとったものだけ。
もし、自分の周囲にいる人間があてにならないのならば、学校の先生すら信頼できないのならば、図書館に出かけて偉人の本でも読めばいいのです。図書館は誰にでも開かれています。職を失った人にも、家庭に居場所がない人にも、学校が苦手なひとにも。そこには、あなたが経験しえなかったことを先に体験したことのある人の思想に、いくらでも触れられます。たとえば、松下幸之助やらカーネギーやらの自伝は、読みやすいもので書かれたものがあります。彼らは決して恵まれた生まれではなかったのです。常に将来なりたい自分を想像し、何が必要かを選び、そのためにできる努力をしてきただけ。
世の中にどんな仕事があるか調べたり、どんな生き方が自分に合うか考えたり、若い人にはそういう時間が必要なのです。たかだか20年ぐらい生きただけで、勝手に自分の人生に点数をつけないでほしいものです。
ただ、親が児童虐待をしているとか、性的な倫理観が欠如しているとか、ギャンブルやアルコール依存だとか精神疾患がある場合。
そういう明らかに不遇な家庭で育った若者のサインを見逃さないことも大事で、精神論では片付けられない部分もありますよね。挫折感ばかり植え付けるのでなく、小さなことでもいいことから達成感や喜びを与えること。そして現実の厳しさも。回り道をしたがらない子ほど、ユーチューバーとか漫画家とか芸人になれば一攫千金で逆転できる、と思いがちなのでは。そういう仕事で成功してる人は見えない努力をかなり重ねていますよね、絶対。
ところで、若い人がこうした絶望を抱きがちなのも、おそらく私と同世代の空虚感が足を引っ張っている感じがしないでもないですね。
「親ガチャ」といい親を尊敬しない子がいるのは、子の自尊心を打ち砕いてきた親がいるからなのでしょう。社会に出ての自信のなさのために、弱い者に当たっているのです。
(2021/09/09)