「だ、だめっ!!」
「うわ?!」
真琴の唇が近づこうとしたので、両手で思わず突き飛ばしてしまった。
真琴はうっかりバランスを崩して、転びそうになる。あいにく肩に背負った荷の重さもあって、真琴が宙を背泳ぎするような態勢で倒れていく。後ろに待っているのは奈落の底だ。青ざめた姫子は慌てて、落ちそうになるその腕に縋ってたぐり寄せた。
姫子が支えるにはふじゅうぶんで、ふたりして転がりそうな勢いがついたころを、ハンモックのような弾みが背中に働きかけて、大きく揺り戻された。スローモーションで巻き戻された動きをする世界のなかで、ただひとつのものだけが闇の底まで滑り落ちていった。
「ご、ごめんね、マコちゃん。つい、興奮しちゃって…だいじょうぶ?」
真琴を両手で掴むために姫子がとっさに手放した懐中電灯が、闇に包まれた石畳の階段を躍るように転がり落ちていった。燠火のように小さくなっていく光源を目で追いかけながら、足で追うことはしない真琴は、頭をかきながら小さな苦笑いを浮かべた。それは、ふだんからよく見知っている親友の顔だった。
「いや、あたしも、ごめん。悪ふざけが過ぎたかな?」
「ううん」
姫子はかるく首を振って、笑顔をみせた。つくり笑いだということが感じられた。
その優しさの分だけ、真琴の胸は痛くなる。冷静になっていく頭で考えてみても、なぜ、自分が衝動的に姫子に手を出そうとしたかが、わからない。自分が自分でないような気がした。誰かに魂を操られて、あたかも見えざる存在の影絵にされて操られてしまったかのように。
自分でもどこからそんな力が湧いてきたのかと疑うくらい、強く真琴をひきあげた姫子は、そのまま抱き合っていた。ああ、よかった、マコちゃんが無事でいてくれて。反省した真琴は、悪さをするよしもない。
あれ、前にもこんな場面なかったっけ? 自分が転びそうになって、誰かに助けてもらった覚えがあったような。でも、思い出せない。
台風が通ると足をとられかねないほどの激しい濁流を落とす、この階段は学園でも事故が多い名所で、とりわけ通学者は注意を払っている。雨が降ったあとがとくに用心のしどころで、階段の両脇を流れる段状の排水溝や、湿って滑りやすくなった苔が危ない。そうした危険をいちいち知らせながら、姫子の手をとって先を歩いてくれたのが真琴で、横並びになって前を塞いでいる級友たちをどやしながら、安全路を切り開いてくれる頼もしい先導だった。つかのま気味の悪さに駆られたかといって、その友人を突き飛ばしてしまうなんて。今さらながら、姫子はうっかり自分の過ちに恐れをなした。半分以上上りきっている階段を転がり落ちたら、全治一箇月以上の怪我は免れえまい。
ひょっとしたら真琴はちょっとしたいたずら心だったのに、過剰な臆病風から邪鬼のように思いこんでいたのは、自分だけではあるまいか。
うっかり自分のせいで、また大切な人を失うところだった。
身寄りのないわたしが、いちばん頼れる相手だったのに…──とそう思い至った姫子は、なにかもっと長い間自分は貴重な想い出をどこかに落としてきたのではないか、という、どうしようない焦燥に駆られた。