「タイが緩んでいたから、なおしてあげようとしただけだよ? なぁに心配してんだ?」
「べ、べつに。さっきからマコちゃん、おかしいんだもん」
真琴はうそぶいた言い訳をしたが、姫子は結びなおしたタイ以上に、警戒心をきつくした。
リアクションが大きすぎたのは、ついさっきのうすら寒い気配のせいで、恐怖心が育っていたせいだろうか。手痛い仕打ちを浴びせられたというのに、気持ちが昂っている姫子を真琴はおもしろがっていた。
「そか? あたし、なにかに憑かれてるのかもしれないなぁ」
「ひょっとしたら、さっきの…?」
なぜかしら、姫子の身震いはひどくなった。
またしても、水田にさしかかった夜道での怪奇が頭をかすめる。我が身の危険もさることながら、もし真琴がなにかに乗っ取られて、狂いでもしていたのだとしたら。そして、それが直らなくなったとしたら。
おどけた狼のようなポーズをするが、姫子が後ずさったので真琴は残念顔だ。
折しも、救急車のサイレンに重ねて鳴くような野犬の遠吠えが聞こえた。そのなんとも情けない吠え方に倣って、真琴も泣き出しそうな唸り声をあげている。真琴はネズミのような喋りのアニメのキャラクターの物まねがうまく、仔猫を引き寄せるような甘い舌打ちも得意で、姫子はよく引っかかってしまう。からかわれるたびに気を悪くするが、やはり憎めない。あお~ん、うを~ん、とおかしげな鳴きまねは、ふっと強ばった姫子の気持ちを柔らかくした。
「ほらほら、狼さんだって、かわいい子豚ちゃんを狙ってるだろ。姫子を襲っちゃうかも? がおぉ~っ」
「…ははっ、もぉっ…マコちゃんたら。やめて…よ?!」
真琴は指揮者のように手を振りかぶると、手のひらで狼をつくった。
その一連のおどけたモーションが道化じみていて、姫子はかえって笑ってしまった。ふたりだけで理科室の掃除を任されたとき、暗幕を引いた暗がりの部屋で真琴が興じていた影絵劇を思い出した。
指先の黒いケモノは姫子の影になった丸い頬に食らいつこうとしている。
しかし、二本の指ハサミは、姫子の紅いリボンの結び目に噛みついていた。姫子の顔に忘れていた恐怖が、全身から掻き集めてきたようによみがえった。だめだ、逃げなきゃ、わたし、また襲われる! 本能が危ないと警告している。頭の奥で、逃げて、逃げてと、虚ろな声が響いた。しかし、影が地面に張りついたかのように、足が一歩だに動かなかった。
無抵抗な相手に味を占めた真琴は隙をみて、姫子の腰を抱いた。
その髪を撫でた手は、肩をすべり、腕や太腿に触れて。唇に指をあてた。片方の手で股のあいだを軽くまさぐられたので、姫子はびくん、と肩をふるわせた。
「で、その白衣の女はさ、女子学生にこう迫ったんだ──『貴女の骨が好きなの。かたちのいい顎、なめらかな頭蓋骨、しなやかな肩甲骨、きゃしゃな腰骨、細い手足。そして、美しく並んだ白い歯。その骨を描かせてくれない? 貴女のすべてを見せてほしい』ってね。その紅い瞳の暗示にかかって、女の子は服を脱ぎはじめて…」