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カズキは日ごとに体格も良くなり男らしさを増してゆくソウマに、すこし複雑な心持ちを抱いていた。少年のなかにかつてみられた想い人のたおやかな美しさは、薄れていく。それが、やがては花も美もある大木に育つ若い立木を、自分だけの囲いのなかで眺めておくような傲慢さなのだと知りつつも。
ちょうど、そんな折りだったのだ。十六歳で海外留学を終えて村に里帰りした名家のご令嬢を目にしたのは。カズキは我が目を疑ってしまった。凛と咲く菖蒲のように、まっすぐな立ち居の美しい千歌音はまさに、あの美しいひとの再来かとも思えた。
剣葉のごとき鋭いまなざし。大ぶりの花弁をくつろげようと、けっしてその重みで首うなだれない凛々しさ。深い菖蒲いろの衣。燕子花の強さと美しさをそなえた、その麗人がいま庭先に佇んでいる姿は、あのときの憂いに沈んだ彼女の横顔そのものだった。千歌音がそのあでやかな花のような姿であることに心ふるわせて悦んでいる自分がいるのに、当人が嘆いているとはどういうことなのだろうか。
「大神さんは…来栖川さんに、ふさわしい相手です…。私も彼みたいに男に生まれればよかった…」
カズキが今は亡き夢想のひとの面影に想いを馳せていると、少女のいつになく遠慮がちな低い声がもどってきた。
返事をしたというよりは、独り言のようにつぶやかれた言葉だった。
まるでその言葉を庭先の紫陽花にうけとめてもらうかのように。口のある生き物に肯定されてしまわないように。千歌音は答えが吸い込まれて返ってこない方角を、ひっしに眺めていたのだった。ちょこざいにはその問いには答えはしなかったが、その花は別の疑問をよこしてくるのだった。
花はどうして毎年、同じ花を咲かせるのだろう。また同じ形と色で生まれてくることを約束されている。だから、散り際も美しい。限りある命を精一杯生きている。けれど、花は思わないのだろうか。今度生まれてくる時は、別のものになりたいと。別の花になって愛されたいのだと。自分が自分であることに嫌になる。
そんな煩悶を抱えながら紫陽花を遠い目で眺め尽くしていると、まるでその思惑を見透かしたように、カズキが穏やかな声で質問をなげかけた。
「姫宮君はどんな花が好きだね」
「さしあたって、嫌いな花というものはありませんが…」
「ははは。まったく君らしいな。好き嫌いがあったら、どんな花でも見事に活けられはしまい。ときに、紫陽花は好きかい?」
「紫陽花ですか…色移りが日ごと激しくて、挿しにくい花ですね」
問いは単純なのに、答えは複雑に返してしまう。青年は、この大人びた思考を持った少女を、少し不憫に思った。「嫌い」の一言で、彼女の目に映る世界から、当の事物は取り除かれてしまう。好きとか嫌いという感情を剥き出しにするのは、良しとされない。人は合理的な理由、しかも客観的な他者の同意を得られるようなかたちで、嫌悪の情を何重にも包んで、それでいてさり気無く、相手の懐へ捩じ込んでやるのだ。小さな両の手に余るほど、多くを与えられてきた彼女は、必要最小限の手間隙で、たった一つを選択する判断力と同時に、それら無数の選ばれなかった物への慎重な気配りも怠らないのであろう。
いつも鞘に納まっている刀剣などより、言葉の方がよほど始末に悪い。なぜなら、常に自ら傷つける存在であるのだと警告もせず、甘い誘惑を出し入れする唇から零れるのだから、それは。
「そうだろう。まず紫陽花を花瓶に活けたいなどとは誰しも思わないだろう。自然に群生させておくのが一番だろうな」
「……」
「花の色は移ると人はいう。だが…色というのはその物の固有ではないのだよ。光の反射によって生じる現象でしかない」
移り気な花。一雨ごとに色を変えるその花は、感情のいれかえの多い多感な少女を思わせた。しかし、また濡れそぼっても七いろに輝くその花は、まさに雨の日の太陽だともいえる。その花が帯びる色は無限なのかもしれない。
「光は君の瞳の中に届いているのだよ。あとは君がそれをどんな色だと認め、どう感じるかなのだ」
そう。認めたくないなら目を瞑ればいい。届かない想い。残酷な事実。なんて。
しかし、闇においても瞼を透かして微妙に照らすのは、あの子の顔なのだ。忘れたくない、手放したくない、譲れない、絶対にこの想いだけは。
ちょうど、そんな折りだったのだ。十六歳で海外留学を終えて村に里帰りした名家のご令嬢を目にしたのは。カズキは我が目を疑ってしまった。凛と咲く菖蒲のように、まっすぐな立ち居の美しい千歌音はまさに、あの美しいひとの再来かとも思えた。
剣葉のごとき鋭いまなざし。大ぶりの花弁をくつろげようと、けっしてその重みで首うなだれない凛々しさ。深い菖蒲いろの衣。燕子花の強さと美しさをそなえた、その麗人がいま庭先に佇んでいる姿は、あのときの憂いに沈んだ彼女の横顔そのものだった。千歌音がそのあでやかな花のような姿であることに心ふるわせて悦んでいる自分がいるのに、当人が嘆いているとはどういうことなのだろうか。
「大神さんは…来栖川さんに、ふさわしい相手です…。私も彼みたいに男に生まれればよかった…」
カズキが今は亡き夢想のひとの面影に想いを馳せていると、少女のいつになく遠慮がちな低い声がもどってきた。
返事をしたというよりは、独り言のようにつぶやかれた言葉だった。
まるでその言葉を庭先の紫陽花にうけとめてもらうかのように。口のある生き物に肯定されてしまわないように。千歌音は答えが吸い込まれて返ってこない方角を、ひっしに眺めていたのだった。ちょこざいにはその問いには答えはしなかったが、その花は別の疑問をよこしてくるのだった。
花はどうして毎年、同じ花を咲かせるのだろう。また同じ形と色で生まれてくることを約束されている。だから、散り際も美しい。限りある命を精一杯生きている。けれど、花は思わないのだろうか。今度生まれてくる時は、別のものになりたいと。別の花になって愛されたいのだと。自分が自分であることに嫌になる。
そんな煩悶を抱えながら紫陽花を遠い目で眺め尽くしていると、まるでその思惑を見透かしたように、カズキが穏やかな声で質問をなげかけた。
「姫宮君はどんな花が好きだね」
「さしあたって、嫌いな花というものはありませんが…」
「ははは。まったく君らしいな。好き嫌いがあったら、どんな花でも見事に活けられはしまい。ときに、紫陽花は好きかい?」
「紫陽花ですか…色移りが日ごと激しくて、挿しにくい花ですね」
問いは単純なのに、答えは複雑に返してしまう。青年は、この大人びた思考を持った少女を、少し不憫に思った。「嫌い」の一言で、彼女の目に映る世界から、当の事物は取り除かれてしまう。好きとか嫌いという感情を剥き出しにするのは、良しとされない。人は合理的な理由、しかも客観的な他者の同意を得られるようなかたちで、嫌悪の情を何重にも包んで、それでいてさり気無く、相手の懐へ捩じ込んでやるのだ。小さな両の手に余るほど、多くを与えられてきた彼女は、必要最小限の手間隙で、たった一つを選択する判断力と同時に、それら無数の選ばれなかった物への慎重な気配りも怠らないのであろう。
いつも鞘に納まっている刀剣などより、言葉の方がよほど始末に悪い。なぜなら、常に自ら傷つける存在であるのだと警告もせず、甘い誘惑を出し入れする唇から零れるのだから、それは。
「そうだろう。まず紫陽花を花瓶に活けたいなどとは誰しも思わないだろう。自然に群生させておくのが一番だろうな」
「……」
「花の色は移ると人はいう。だが…色というのはその物の固有ではないのだよ。光の反射によって生じる現象でしかない」
移り気な花。一雨ごとに色を変えるその花は、感情のいれかえの多い多感な少女を思わせた。しかし、また濡れそぼっても七いろに輝くその花は、まさに雨の日の太陽だともいえる。その花が帯びる色は無限なのかもしれない。
「光は君の瞳の中に届いているのだよ。あとは君がそれをどんな色だと認め、どう感じるかなのだ」
そう。認めたくないなら目を瞑ればいい。届かない想い。残酷な事実。なんて。
しかし、闇においても瞼を透かして微妙に照らすのは、あの子の顔なのだ。忘れたくない、手放したくない、譲れない、絶対にこの想いだけは。