2002年のアメリカ映画「ビハインド・ザ・レッド・ドア」は、十数年ぶりに再会した兄と妹の絆を穏やかに描いたヒューマンドラマです。
ニューヨークに暮らす、ナタリー・ハダットは個展で自分を売り込むことすらしない、愛想のない写真家。生活に喘ぐ彼女に友人が持ちこんできた仕事は、ボストンでのファッション雑誌の広告用の撮影だった。
現場に到着したナタリーは、依頼人のアートディレクターが十数年間、関係を断っていた兄ロイと知って驚く。常に自分に自信があって高慢な兄に鼻持ちならないナタリーだったが、誕生パーティーに無理やり付き合わされる。さらには、兄が病に冒されていることを打ち明けられて…。
あけすけに言えば、辣腕の仕事の虫で裕福層が人生の最期を穏やかに家族の愛に包まれて過ごすことの大切さを謳った、ありがちな感動作です。
しかし、ロイは実は同性愛者で、一年前にパートナーを病気で亡くしたばかり。正確に述べてはいませんが、彼の病気がHIVであることがわかります。名うてのディレクターである彼は、名声が落ちることを気にかけていて、それを仕事の仲間にすら公表できない。頼れるのは、長らく疎遠であったのに血は繋がっている妹だけしかいなかった、というわけです。
しかし、病身の兄を久びさに再会を果たした妹が献身的に看護するわけではありません。気難しく完璧主義のロイは、どちらかといえば不器用な妹の食事に文句をつけ、ナタリーも自分の仕事があるからと当初は乗り気ではありませんでした。たまさかとった休暇でシカゴ旅行をし、仲を深めるものの、今度はロイが雇った看護士や、女性のファッションデザイナーとの親密ぶりを巡って、ナタリーに微妙な感情の荒れが起こってしまいます。いっぽう、ロイも亡き母の面影を妹に見ているようで、華やかな世界に身を置く男とは違った弱みをみせて、ナタリーの母性本能をくすぐっているかのよう。
ただし、このふたりの愛情は、あくまでプラトニックなものです。
二人を十数年間も遠ざけていた背景に、断片的に挿入される父親の虐待や、母の死が絡んできていることを匂わせます。母の事件を巡る真相に、幼い記憶と写真を辿りたどりしながら近づこうとするナタリー。このあたりはサスペンスタッチなのですが、あまり伏線としては重い意味を持っていません。ロイの過去をちらつかせて、彼の人となりを視聴者の判断を迷わせる材料でしかないのです。
最終的には兄はみずからの死を受け入れ、残された妹はこれまでと変わりない日常へ戻っていく。しかし、ナタリーには、意地を張って孤独を貫くよりも、人の愛を信じてみようかな、という気持ちの変化がみてとれます。タイトルの「赤い扉」とは、頑なに自分の世界に鍵をかけて閉じこもろうとする独り身のナタリーの心理状態を言い当てたものだったのでしょうか。
感動はあくまで控えめで静かな余韻が残ります。
同性愛やエイズ患者を扱ってはいますが、あまりその点に関する深刻さは感じられません。エイズ患者という設定は、妹が自分のいのちをも危険にさらして介護をする愛情の深さを強めていく要素にはなりますが。
兄がさりげなく海辺でつぶやいた雪の話が、妹にとっては遺言と捉えていたのかと思ったのが、あの散骨のシーン。余命まもない患者の悲劇からではなく、看護する側の感情の変遷に視点を置いたところに、好感がもてますね。どんなに紳士然とした人物だって死を前にすれば、子どものように怒り喚き、我がままで手が着けられなくなってしまいます。ナタリーも挫折しそうになりますが、兄の看護を通じて、自分を支えてくれる温かさが周囲にあることにも気づくのです。
ロイは死別した恋人が、死に際に自分を遠ざけたことで傷ついてしまい、女性はむろんのこと、同性にすら気持ちを委ねることができないままでした。ナタリーも仕事のことが精いっぱいで、男の気を引くような色めき立ったところがない人生。お互いに孤独であった兄と妹はうまく最後に噛み合って絆を回復させることができましたが、無縁社会と言われる現代日本では誰にも看取られない寂しさにくるまれて死んでいく方が多そうです。
夫婦や親子という関係つくりあげることができなかった大人は、死に際して、いったい誰を頼ればいいのでしょうか。そんな問いを、観る者の胸に投げ込んでくる作品でした。
主演は、米国の大ヒット刑事ドラマ「24 TWENTY FOUR」シリーズのジャック・バウアー役でおなじみのキーファー・サザーランド。そして、「ウォルター少年と、夏の休日」のキーラ・セジウィック。
監督は、マティア・カレル。
(2010年11月21日)
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ニューヨークに暮らす、ナタリー・ハダットは個展で自分を売り込むことすらしない、愛想のない写真家。生活に喘ぐ彼女に友人が持ちこんできた仕事は、ボストンでのファッション雑誌の広告用の撮影だった。
現場に到着したナタリーは、依頼人のアートディレクターが十数年間、関係を断っていた兄ロイと知って驚く。常に自分に自信があって高慢な兄に鼻持ちならないナタリーだったが、誕生パーティーに無理やり付き合わされる。さらには、兄が病に冒されていることを打ち明けられて…。
あけすけに言えば、辣腕の仕事の虫で裕福層が人生の最期を穏やかに家族の愛に包まれて過ごすことの大切さを謳った、ありがちな感動作です。
しかし、ロイは実は同性愛者で、一年前にパートナーを病気で亡くしたばかり。正確に述べてはいませんが、彼の病気がHIVであることがわかります。名うてのディレクターである彼は、名声が落ちることを気にかけていて、それを仕事の仲間にすら公表できない。頼れるのは、長らく疎遠であったのに血は繋がっている妹だけしかいなかった、というわけです。
しかし、病身の兄を久びさに再会を果たした妹が献身的に看護するわけではありません。気難しく完璧主義のロイは、どちらかといえば不器用な妹の食事に文句をつけ、ナタリーも自分の仕事があるからと当初は乗り気ではありませんでした。たまさかとった休暇でシカゴ旅行をし、仲を深めるものの、今度はロイが雇った看護士や、女性のファッションデザイナーとの親密ぶりを巡って、ナタリーに微妙な感情の荒れが起こってしまいます。いっぽう、ロイも亡き母の面影を妹に見ているようで、華やかな世界に身を置く男とは違った弱みをみせて、ナタリーの母性本能をくすぐっているかのよう。
ただし、このふたりの愛情は、あくまでプラトニックなものです。
二人を十数年間も遠ざけていた背景に、断片的に挿入される父親の虐待や、母の死が絡んできていることを匂わせます。母の事件を巡る真相に、幼い記憶と写真を辿りたどりしながら近づこうとするナタリー。このあたりはサスペンスタッチなのですが、あまり伏線としては重い意味を持っていません。ロイの過去をちらつかせて、彼の人となりを視聴者の判断を迷わせる材料でしかないのです。
最終的には兄はみずからの死を受け入れ、残された妹はこれまでと変わりない日常へ戻っていく。しかし、ナタリーには、意地を張って孤独を貫くよりも、人の愛を信じてみようかな、という気持ちの変化がみてとれます。タイトルの「赤い扉」とは、頑なに自分の世界に鍵をかけて閉じこもろうとする独り身のナタリーの心理状態を言い当てたものだったのでしょうか。
感動はあくまで控えめで静かな余韻が残ります。
同性愛やエイズ患者を扱ってはいますが、あまりその点に関する深刻さは感じられません。エイズ患者という設定は、妹が自分のいのちをも危険にさらして介護をする愛情の深さを強めていく要素にはなりますが。
兄がさりげなく海辺でつぶやいた雪の話が、妹にとっては遺言と捉えていたのかと思ったのが、あの散骨のシーン。余命まもない患者の悲劇からではなく、看護する側の感情の変遷に視点を置いたところに、好感がもてますね。どんなに紳士然とした人物だって死を前にすれば、子どものように怒り喚き、我がままで手が着けられなくなってしまいます。ナタリーも挫折しそうになりますが、兄の看護を通じて、自分を支えてくれる温かさが周囲にあることにも気づくのです。
ロイは死別した恋人が、死に際に自分を遠ざけたことで傷ついてしまい、女性はむろんのこと、同性にすら気持ちを委ねることができないままでした。ナタリーも仕事のことが精いっぱいで、男の気を引くような色めき立ったところがない人生。お互いに孤独であった兄と妹はうまく最後に噛み合って絆を回復させることができましたが、無縁社会と言われる現代日本では誰にも看取られない寂しさにくるまれて死んでいく方が多そうです。
夫婦や親子という関係つくりあげることができなかった大人は、死に際して、いったい誰を頼ればいいのでしょうか。そんな問いを、観る者の胸に投げ込んでくる作品でした。
主演は、米国の大ヒット刑事ドラマ「24 TWENTY FOUR」シリーズのジャック・バウアー役でおなじみのキーファー・サザーランド。そして、「ウォルター少年と、夏の休日」のキーラ・セジウィック。
監督は、マティア・カレル。
(2010年11月21日)