2018年の神無月の巫女のアマゾンプライム放映にちなんではじめたこの企画記事。
放置もいいところで、最終巻めにたどりつくまでに、なんともう4年も経過してしまいました。スミマセン(土下座×百万回)。漫画「姫神の巫女」があってそこに衷心していたとか、コロナ禍ネタをもりこんだ二次創作がすこぶる楽しかったとか、神無月の巫女占いネタの日記でひとりよがりに笑っていたとか、ちょっと他のジャンルに逸れたとか。脱線理由はありますが、あいかわらず自分の計画性のなさに呆れます。懺悔なさい。
その昔のむかし。まだ私がブロガーでもなかった頃に覗いていた先輩gooブロガーさんがアニメの感想を書こうとしたら最終回には感極まって書ききれなかったとこぼしていましたが。言い訳いたしますと、私もまた、同じ境地であります。この作品に限らないですが、いいものをどれだけ良いのか言語化するのって難しいですよね。撥水性のある布地にある色がすでにその生地ほんらいの染めた色ではないように、どうしたって言葉で語れない色あいがあるからです。
作品を輝かせるためには、われわれ読者はなにを語ればいいのでしょうか。作者への神がかり的な信仰心? 技術的な優秀さ? スタッフの努力? 話題性と商品力の良さ? いつも私は悩んでしまいます。客観的な要素として必要なモノ。失礼ながら、この作品はどの要素とっても、かならずしも抜きん出ているとは言えないからです。メジャーな作品ではない。けれども、確実に誰かのココロには刺さってしまう。そんなオンリーワンな作品。ですから、私は、私なりの個人的な想いとしまして、このレビューを書き残すことにします。
今回は旧版DVDのブックレット第六巻め。
アニメでは第十一話、十二話の最終巻。いよいよ結末に向かって動き出す姫子と千歌音の驚きの瞬間。涙なくしては見られないものです。
このブックレット開いて一頁め。
恒例の植竹ポエムからはじまります、もちろん。前巻のものは千歌音への愛を自覚した姫子の想い。この最終巻のは、なんと、もう月の社に幽閉されてしまった千歌音の心情。つまりのっけから最終回よりあとからはじまるわけです。「私は、一人あなたを想う」ではじまるこの姫宮千歌音の感情。ひねった詩趣があるわけでもないだけに、とてもストレートに響きます。そう、もし、自分を想って愛してくれる人がもうこの世にいないのだとしたら、こう願ってくれていたらいいな、そんな希望を抱かせるような。同じ場所にはいないのだけれども、その魂は美しいままで別の場所で生きている。罪を背負ったからといって裁かれ、滅ぼされたわけではない。そして、それはいつか巡り会う可能性がある。それは、イエス・キリストの復活譚にも似た、人類が描く美しい夢ではないでしょうか。
2頁目、以前にも公式サイドストーリーとして紹介した、神無月の巫女最終回のアナザー。題して「輪廻の花園~あり得ざる一つのかたち~」。脚本のプロット段階にあった草稿をブックレット用に再構成したと但し書きにあります。
おそらくは、最終話の学園の花園の樹下で語らう場面でしょう。
死に瀕する千歌音、もうすでに命ある身とは思えない。なのに、姫子と行きたい場所を相談しあいっこする。春の桜のお花見歩き。夏の蛍狩り、秋の馬の遠乗り。冬には遠出で静かな海へ。あまりに千歌音が次々に予定を言い出すので、姫子が驚いてしまいます。正直、こんなに消化したら、のんびり屋の姫子はくたびれてしまいそうで。なんとなく、ふたりの時間の使い方の違いがあらわれていますね。このあたりの差異がうまい。対する姫子は、クリスマスだとか、バレンタインだとか、たどたどしく、思いつけないぐらいに、いかにも恋人がやりがちなイベントを持ち出すわけですね。お子ちゃまな発想で。でも、千歌音からしたらそうじゃないわけです。休日の過ごし方が違うこのふたり、生活感覚をすりあわせるのが大変そうな…。でも、千歌音はこう言って姫子を安心させるわけです。特別なことなんていらないよ、と。何処も、何かも、デートらしいことは不要。ただふたりで過ごす時間だけ、ふたりで触れあえる想いだけがあればいい──けれども、それはもうすぐ消えてしまう。すきま風が千歌音の言葉をさらい、虚しさが二人のあいだを駆け抜けます。そのあと、急にしんみりした千歌音は姫子にはたらいた不貞を詫びつづけます、自分の感情を押しつぶしてしまいかねない程に。ここは読むだにかなり苦しい部分。それをやはりすくいあげてしまえるのが姫子。「自分のわがまま」と前置きしつつも、あなたの苦しみを分けてほしいと語る。その悲しみがあるときに、わたしはあなたを抱きしめる。それがわたしの幸せなのだと。けっして忘れない約束なのだ、と。神無月の巫女という巫女の運命ですら、嬉しいのだと。
そして、このアニメのあとの続編と思しき作品群を観てきたわれわれは。
この姫子の決意表明がけっして間違っていなかったことを知っています。そうです、知っていますとも。この十年とそれ以上、私たちはつぶさに眺めてきたではありませんか。記憶を改ざんされた天使を復活させた絵描きの少女。呪うべき神さまであった少女に平凡に生きる星を与えたシスター見習い。殺し合うさだめにあった敵を欺き、そして救おうとして、ふたりで活路を開いた令和のあの作品に至るまで。アニメ本編にさしはさまれる前世の姫子がいまわの際に千歌音に見せた笑顔のままに、姫子は月の牢獄へと幽閉されゆく千歌音をおおきな愛でつつみこむ。それがわかる小話です。これを採用しなかったのは、千歌音の懺悔がややくどくどしすぎて重たかったからで、おそらく柳沢テツヤ監督がスパッと判断したものと思われます。
それにしてもこの公式SSで姫千歌がアイデアをぶつけた未来、「姫神の巫女」で実現されているのが面白いですね。二次創作で手掛けてみたいようなワンシーンで、情景が思い浮かびます。それだけ、神無月の巫女本編では、姫子と千歌音の幸せな時間が足らな過ぎたとも言えますけども。
なお、この公式SSについては過去記事において、アニメ本編との比較分析をおこなってもいます。よろしければ、以下のリンクをご参照ください。
神無月の巫女公式小説集(二)
神無月の巫女には知るひとぞ知る公式小説があります。旧版DVDのブックレット掲載の小話より。感動の最終話には必涙のアナザーストーリーがあった! 悲哀とぎれぬ千歌音ちゃんのこころの襞にご注目。
神無月の巫女公式小説集(三)
神無月の巫女には知るひとぞ知る公式小説があります。旧版DVDのブックレット掲載の小話より。感動の最終話には必涙のアナザーストーリーがあった! 勇気めばえる姫子のこころの襞にもご注目。
さて、今回のスタッフコントは、柳沢テツヤ監督、原作の介錯氏、そして文責を担うシリーズ構成脚本の植竹須美男氏のトリオ。前回にもまして、さらに字が小さくなるので、加齢の進んだ自分には読むのが辛いのですが(苦笑)。
柳沢氏のコメント。
やはり監督ですから、この作品全体を貫くテーマを言いきっています。甘ったるい百合テイストの娯楽ではなく、古典的な純愛の愛憎劇をつくりあげたい。それはスタッフ総勢の本音だったと。ソウマがなしとげた、恋で報われなくても世界を救うという裏表のないヒーローの美学。演出家としては、表情の難しい千歌音、カズキ、ユキヒトの絵コンテには苦労したと語っています。柳沢氏はガンダムよりもやや古い世代の、マジンガーZみたいな、男の子がガッツリ勇者の、闘うヒロイン以前の世代であるために、姫子と千歌音をロボットアニメでありながら、ほとんど闘わない設定にして、心理戦として描いたのは彼の功績だったといえますね。あれだけロボバトルシーンのときは作画に気合入っているのに、有名なロボ作画スタッフを集めたというのに、それらが二人の少女の純愛劇の背景に過ぎない、とあっさりわりきるあたり、やはり職人集団をまとめるリーダーとしての、経営管理者としての厳しいセンスを感じます。植竹さんみたいな才能あるが癖が強いクリエイターを使いこなせるのも、監督の采配のおかげでしょう。ところで、美少年作画演出の姫野氏を敬愛しているだけに、彼の描く少年、なんとなく妙な色気がありますよね…。奥様の藤井まきさんとは違った意味で。
介錯先生のコメント。
女の子同士が結ばれる、世界が救われるよりも先に、という異色の結末を用意した、そんな物語にしたかった、見たかった、という並ならぬ決意。これこそが神無月の巫女がうまれる動機になったわけで。このコメントを読む限り、通常の原作漫画を踏み台にかってにアニメ化してくださいね、という投げっぱなしではなく。かなり企画の段階でストーリーの持っていきかたに論議を交わしたとあります。また監督が千歌音を「気高き愛に悩む少女」としてとらえているのに対し、漫画家先生のほうは、ソウマと並ぶ姫子にとってのヒーローであり、ヒロインへの愛に傷つくが結ばれる勝者としての千歌音、姫子を守りたいがためが結果として世界を救う勇者になったソウマ、という「ダブルヒーロー」であると考えています。ちなみにロボットはとうしょ二体しかなかったという暴露もびっくりしました。つまり最初の案ではロボットアニメとしての体裁ではなかった、と。いやロボット出てくるけれど、搭乗者がわんさかいいる、そんな総当たり戦めいたものじゃなかったと。ロボット好きが集まったから、ノリでたくさん出しちゃえ、といった感じですね。このおふたりは漫画家さんなのだけども、こうした集団で打合せをして各自アイデア出しをしながら、柔軟に作品の構想を固めていくタイプ、つまりコーディネーター型なんでしょうね。だからこそ、十作近くも代表作がアニメ化されてきたわけです。なので、作風をみると、キャラの性格付けにブレがあったりするのですが、それが一度読んだだけではわかりづらいテーマの二面性や裏があることに、後年気づいてしまうことが多いです。エログロな面も惜しげもなく前面に出すので誤解されやすいのですが、敵方にも惻隠の情があり決して追い詰めないところに救いがあります。
植竹氏のコメント。
企画書を読んだとき、とうしょ、主人公男の子で両手に華のありがちな三角関係と思ったらしいです。でも女の子一人を巡って少年と少女(どちらも美形!)が争う。だったら、もっと少女同士の恋愛を軸に据えて、そして女の子を勝たせたい。こんな異色の提案がかない、ここにめでたくアニメ神無月の巫女の要となる姫子と千歌音の物語が生まれたわけです。当時としては珍しい、百合が異性愛の前座にされない新しい物語を。植竹氏、のちに漫画「姫神の巫女」最終巻の巻末での寄稿文にあるように、なかなか深い百合作品への見識をお持ちのようで。この脚本家なかりせば、このアニメ神無月の巫女は格式高く、奥ゆかしく、少年少女の美学があらわれた悲恋になりえなかったのではないでしょうか。植竹氏は文筆家肌といいますか、強烈な美意識の高さの反面、こだわりが強くて組織作業ではやや苦労があったのか、そのあたりをコメントでこぼされています。お気持ちお察しします。姫宮千歌音の、あの悩ましい恋の懊悩は、植竹構文でしかありえなかったわけです! 擬古文的なあの文体、歴女がノックアウトされぬはずがない! 存分に自分の表現を追求できたのが、ウェブノベルの「姫神の巫女」だったのでありましょう。「私が今一番愛しているアニメは神無月の巫女」。そう言い切ったお気持ちに現在・過去・未来もお変わりないことを願います。ファンの端くれとしましては。
さて、そんな植竹氏の健筆冴えわたる最後の解説が最終頁に。
第十一話「剣の舞踏会」、第十二話「神無月の巫女」 ~彼女たちの選択~神無月の巫女。
これは作品のラストを踏まえた総括になっています。なぜ、千歌音が選ばれ、ソウマはこぼれ落ちたのか。人間としての優劣ではない。愛情の強弱でもない。ただ、愛する人は一人だけでいい。それこそ彼らスタッフが出した答えだから。これはバブル時代の奔放な恋愛ドラマや80年代あたりのハーレムアニメに対する強烈な異議申し立てです。そしてまた、それは、かのロシアの大文豪トルストイの名言「愛とは、大勢の中からたった一人の男なり女なりを選んで、ほかの者を決して顧みないことです」を思わせます。千歌音もソウマも、そしてまた姫子自身も愛することを学んだことによって幸福な道を選びきったのです。そこに勝ちだとか負けだとかはありません。妥協を許さないソウマの失恋しめくくりはファンのあいだでは論議を呼びましたが、恋愛はゲームのような勝負ではない。だからソウマには救済の措置がない。他の女の子をあてがわれて、男としての矜持を保つ、なんて配慮はいらない。それはただのエンタメだから。そんなことをしなくても、大神ソウマという人物の魅力が落ちるわけではないのだから。神無月の巫女はそこを目指さない。それこそがスタッフが貫いた「愛の形」だったからに他ならない。
ヒーローの意義は決意と行為にこそあり、ただの百合恋愛ごっこではなく、少年少女たちが運命に抗っても成し遂げた純愛の極致こそ、この制作者たちが目指したものである。それが神無月の巫女で語りたかったこと──なのだと。
剣の舞踏会ならぬふたりの剣戟のシーンで、千歌音の心情を追体験させるコメントは鳥肌ものです。ハァハァ斬りとして歴代の笑い種にされがちなあの場面、じつは千歌音はこんなにも重い感情をおさえきれずに振り回していた。けっして狂気ではなく、絶望でもない。それが証拠に貝殻が切り離れたとたんに、千歌音は仮面を脱いでしまう。そこへうっかりと姫子の一刀が…。衝撃のラストで最終話へ。そして語られた神無月の巫女たる者の悲しい運命。
ここを読めば、あの簡潔なアニメの台詞の裏に、とんでもなく語り尽くせない気持ちが何重にも織り込められていたことがわかります。ソウマ、千歌音ときて、最後は主人公の姫子。想い人を待ち続ける彼女の未来、早乙女真琴との学生寮でのやりとりに戻った真意。そしてあのCパート伝説の交差点での邂逅。この場面はあえて想像にお任せします、な曖昧さ演出にしたそうですが、漫画版の「姫神の巫女」(全三巻)の初回がこれにつながるシーンになっているのはぜひとも指摘しておきたいところです。
文末には、物語の続編制作を匂わす記述がありまして。
それはすぐのちの2007年に「京四郎と永遠の空」がアニメ化されたことからも実現の運びとなりました。植竹氏は小説の執筆もし、富士見書房文庫として出版されました。2009年ごろにはご存じのようにウェブノベルとして正当なスピンオフ作として「姫神の巫女~千ノ華万華鏡」が発表されました。なお、その間には、神無月の巫女のサイドストーリーとしてのグッズや同人誌附録の小冊子の小説なども配布されています。2022年今夏のコミケでアクリルスタンド附録として再配布された「神無月の巫女~卒業雪~」もそのひとつでした。
皆さまに応援してもらえることが、創作の原動力になります、とあります。
この神無月の巫女ワールドはたしてどこまで続くのか見届けたいものです。すでに主要スタッフのひとりである村田護郎氏が鬼籍に入られています。誠にファンの身勝手ながら、このコロナ禍では心配になります。おからだご自愛くださいと願っています。
さて、このブックレット感想記、残り一回となりました。
次回はもうひとつのブックレットについて、です。そう、あの生誕五周年記念に発売されたDVD-BOX版の付録の。
アニメ「神無月の巫女」ブックレットについて(まとめ)
月には誰も知らない朽ち果てた社があるの。全ては其処からはじまりました──。感動の全十二話を堪能したあと、再観賞用に、保存用にオススメのDVD。今回はその旧版DVD付録のオールカラーブックレットで、作品をふりかえります。
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