自由と不自由は最終的には同じ~何もかも決まっている
僕は常日頃、ブログやFacebookで本質的なことを記事にしている。
多くの人は自分という存在があり、物事を考えたり、物事の判断を自らが行い、自由に思考していると考えている。
そして自由を制限されたくないと思っているのだ。
しかし、僕はあなたに自由意志は存在しないと言っている。あなたは何も思考していない。
いや、自分は現に今、自由に思考しているではないかと思われるかもしれないが、それはあなたの思考ではない。
それは機械的反応に過ぎない。
常日頃僕が言うように、人間は外界からの刺激(情報)に反応して動く、これはすべて全自動的に行われ、それに対して、あなたが自分でそれを止めたりするなど関与することは出来ない。
物事は常に先に起こっており、僕らの認識(解読:思考)は常に遅れる。
まずそこに世界が存在して、先に起こっているので僕らは動けるのだ。
何もないところから認識しながら動くことは出来ない(そもそも何もなければ認識することさえ出来ない)
物事は先に存在し、物事は先に起こっており、その起こったことを解読しながら、それを体験している。
つまり、あなたの人生は生れて死ぬまで決まっているということです。
僕らの周囲を見渡してみると良い。自然から何から何もかもが法則通りに動いている。これは例外は無い。もしあるとすれば、まだ解読が出来ていないに過ぎない。
解読できていないという認識があり、そこには現象が存在するので認識の範囲内であることは、すでに起こっている範囲内ということである。
もし、何も認識できないものがあるとすれば、認識できないことさえも認識できないので、そもそも認識できない。
人間は僕がいつも言うように外界の刺激に単に反応しているだけに過ぎない。そこに解読装置としての自我が、自分だと言う幻想をもたらしている。
この自我は、普段はもやもやと漂っており、常にスタンバイ状態でオートパイロットとして日常の活動を支えている。
そこになんらかの刺激が加わった時に、自我が鏡面のように刺激に対して反応する。
これは僕たちで言うところの脊髄反射や膝蓋腱反射となる。
しかし、自我は自分は自分で考えているように偽装する。その刺激に対する反応は完全に決まっている。自由意志など無い。
僕らが物事を判断するときに、情報が多いほど自由があると思い込む。
しかし、例えば食堂に入った時に、その店にメニューが二つしかないと選びやすい。選んでしまえばあとは自由だ。
しかし、ものすごい数のメニューがありさらに好みに応じて、いろいろとトッピングを選べるとなると本当にめんどくさい。
これなど、選択肢が少ない方が楽である。情報が多いとすぐに処理できず、結果、不自由になる。
だから、情報が多いのが自由ではない。これは他のことにも言える。
自由は不自由なのだ。だから、結局のところなんでも不自由になる。そうやてってこの世界は法則に縛られる。
音楽も芸術も何もかもが、法則や理論があり、自由に見えるが、理論や法則の外に出ることは出来ない。
結局のところ、最終的には何も新しいものなど創造できない。どこかの誰かがそれはすべてやりつくしており、何もかもが似ている。
人間は法則に縛られ、そこから出ることは出来ず、常に同じことしか繰り返さないのは法則に縛られているからである。
そこを考えても、自由など幻想であり、法則の不自由に縛られる。
そうやって、この世界では何もかもが決まっている。決まっていなければ、この世界は生れない。
ルールの中で自由だと言う幻想を自我が持っているが、科学だろうが芸術だろうが、極めて行けば行くほど、本当に窮屈な世界に押し込まれていく。
最終的には、ルール(法則)の外には出られないことに気づくのだ。
管理社会は嫌だと多くの人が思っている訳では無いのは、管理されることと自由は関係ないからだ。
自由という幻想をぶち破り、自由は無いのだと言うルールに従った管理社会こそが本質的になっていく社会であるかもしれないのだ。
これでもかというくらい、人間には意識(思考)が無い。単なる刺激に反応する機械にすぎない。
そしてこの世界の物理法則に従って、人間の人生はすべて最初から決まっているということを理解し、人間はただ先に起こっていることを解読するだけの機械であるということを認識できれば、
あなたの持つ不安や恐怖は減るのではないだろうか。
何しろもう何もかも決まっているのだ。起こることはあなたの責任ではない。これから何が起こるだろうかと心配になる必要も無い。
何しろもう起こったことなのだし、あなたが起こしたことではない。
僕らはこの世界を、これから起こることを一切変えることは出来ない。
あなたはすでに決まっていることを解読して体験すればいいだけなのだ。
今まで起こったことで、何かを後悔する必要も無い。それはすでに起こったことを解読したに過ぎない。あなたがそれに対して、できることはないし、今後もできない。あなたの責任ではない。
もしあなたがいや、自分は努力して自分を変えて今の自分がいるのだというであれば、それは自我の錯覚である。
それはすでにあなたが決まったことを解読したに過ぎない。
あなたに起こったことは他人にアドバイスすることは出来ない。それはあなたのストーリーなのだ。
どうぞ、自分自身のストーリーを解読して体験してください。
もうすでに決まっているなら、自分に何の責任もないから何をしても関係が無いと思い、いい加減な生活をしようとするならば、それも決まっていたことです。
多くの人には、そういう自堕落な生活はできません。そういう設定がなされていないのです。
心配する必要な無い。
あなたは何か大きな船や道がすでに用意されているので、何もない未知の場所を手探りで進んでいるわけではありません。
地図は先に用意されています。
あなたが旅行に行くときに、地図を手にして行くでしょう。そこはすでに存在しているでしょう。それがこの世界です。
それは(人生)生れる前に自分で設定したのかもしれません。または誰かが設定したゲームかもしれません。
今生が終わる時かわかりませんが、いずれわかる日が来るでしょう。
何もかも決まっている。決まっているから安心できるのです。
もし、あなたが目の前が真っ暗で、行く先の全くわからない船に乗っていれば、不安で仕方がないでしょう。
追記
決まっているんだから、心配せず、自分の好きなように自由に生きれば良いんだよ。
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