名探偵コナンで出てきたことでよく知られているのではないでしょうか。
もちろん大人じゃない僕は知りません(笑)
でも意味は知っています。Kissの記号化ですね。
欧米人が手紙の最後に書き記すそうです。
XX(X2つ)は親愛の情ってことで友達用、
XXX(X3つ)は恋愛感情ありってことで恋人用、
と使い分けてるそうです。
「ちゅちゅちゅ」と読むだとかなんだとか。
欧米人や韓国人と日本人がメンタル面で違うのは、フィジカルコンタクトが少ないことだと思います。
キスに関しても、欧米人は挨拶代わりですからね。朝起きたらXX、会ってはXXですからね。
日本人にとっては、演劇とはいえ目の前でのキスシーンはしんどいところがあります。
だから僕は基本的にはキスシーンは避けます。
主に三つの理由からです。
1.観劇の邪魔になる。
←普段見慣れないことですから。
2.リアリティを創りにくい
←普段やりなれないことでしょうから。
3.別の意図を持ってそう書かれている場合がある。
←形式的なキスと書かれている場合、ほんとにキスしちゃうと日本人には別の意味で解釈されかねません。
さて、なぜ恋人の間のキスシーンであっても、目の前で芝居としてされるとしんどいのでしょうか。
演劇的な意味においてです。
これは、2つ要素が関係していて、一つ目は社会的な習慣として、恋人のキスを人前で見るときの羞恥感情があると思います。
もちろん堂々とチューしてはる熱々のカップルさんたちも街中にはいますが、いまだ少数派でしょう。
もちろん親しい間柄で、おうちでしていただく分にはぜんぜんかまいません。
でも、やっぱり街中で見るとそれに対してちょっと眼を背けちゃいますよね。あるいは顔をしかめる人もいると思います。
脈絡のない話に思われるかもしれませんが、わいせつ物陳列罪かどうかは公衆の羞恥感情を害したかどうかです。
日本で性器にモザイクがかかるのは、公衆の羞恥心を害するからなんですね。
逆に言えば(もちろん法の成り立ちや法律自身が違いますが)外国でないのは(大人にとっては)害とは考えられないからかもしれません。
と、いうことで社会感情・公衆感情的な面があります。
もう一つの要素は、生身の人間が演じる演劇であるからこそ、成立しにくい表現というものがあることです。
よく例に挙げられるのは「死」です。
岸田戯曲賞に輝いた五反田団の前田さんの作品ではそれが逆手に取られてどんどん舞台上で不条理に死んでいく表現でした。
目の前で人が死んだという演技をされても「いやいや、俳優さんは生きてるやろう」と思ってしまいますよね。
あるいはほんとに流血シーンなんかされたら、もう痛いですよね、見ていて。
同じようにキスシーンやセックスなども見ていてちょっとしんどいだろうと言う気がします。
キスそのものやセックスそのもの、あるいは死や痛みそのものを描きたいわけではないのですから、逆に言えば不必要でもあります。
それをメタファーや人形を用いて表現したりして、観客の想像力にゆだねる時に、演劇はその力を最大限発揮するといえるでしょう。
「女殺油地獄」という文楽のすばらしい作品があります。
これは映画もありますが、油まみれで殺人が行われる話なんで、どうしてもエログロな表現に実写だとなってしまいます。
でも文楽の人形で表現すると、とても美しい、ドラマチックな表現になります。
人形の方が、ほんの少しの首の傾きや、頭の位置の変化で、ものすごくドラマチックな効果を生み出せることがあります。
無表情さにこそ、想像力が働かせられるのでしょう。
感情移入をしやすくなる効果もあります。
逆にそうした方法を演劇に応用することも可能かもしれません。
僕の作品に「AKIKO」というラジコンカーと女の子一人芝居の競演するものがあります。
これ、ほんとにラジコンカーであるダイハツMOVEが意志を持っているように思えてくるから不思議です。
彼には表情なんてないのに、怒ったりすねたりしているように見えていくのです。
演劇だからこその表現、演劇をやるならばの表現というのを見つけていきたいです。
演劇とは観客との共同作業だな、とほんとに思います。
これを共犯になるという人もいます。
虚構を創るので。
戯曲にXXXやXXと書かれていても、
日本人に受け入れられる、その戯曲が求める表現を稽古場で見つけていきたいと思います。
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