GW中、風邪を引き散々な目にあいました。
皆様は楽しい休暇を過ごせたでしょうか?
創造的な休暇を。
と、いうことで創造性です。
前二回がこれまでより取り留めの無い感じになっていることを反省して、最初に書こうと思っていることについて一文にしようかと思う。
“創造性とは日常をいかに生きるかである”
昔、CDFの持ち物にイマジネーション(想像力)とクリエイティビティー(創造性)と書きました。
すると、どうやら想像力の方は分かっても創造性の方は、あまり分からないようだった。
ちなみに想像力の方は、手前味噌だがぶんげいマスターピース工房のコミュニティプログラム「演劇出前ワークショップ」の参加者のことばを引用しておく。
もちろん、上の持ち物2つの元ネタはマンガ「シュート」に出てくる「サッカーに必要なものは?」という問いへの神谷さんの答えだ。
さて、日常と創造性がどう関係あるのか。
例えば、僕は雇われる生活から脱却して1年を過ぎたが、当時よりクリエイティブな暮らしをしていると思う。
それは作品を創っているから、というよりも、端的に言えば貧乏のおかげだ。
今、残念ながらその日暮らしをしていて、いつがガスの引き落とし日で、電気がいつで、電話が・・・ということまでよく分かるようになった。
そうすると、日々の暮らしで頭を使う。
コーンフレークが三食続いても大丈夫だったのが、さすがに飽きてくるのでフルーツグラノーラを混ぜ、さらにヨーグルトを混ぜ、ご飯を導入し(洗うのが面倒だったのでなかなかこれまでは導入しなかった。でも腹持ちし、いろんなものに合う米に対しては日本人の先祖のクリエイティビティに感謝!)、といった創造性を働かせるようになった。
あるいは、僕は思いつきで行動するのが好きで(だから「やりたくないことはやるべきではない」というルールが存在した)、その弊害として、今日なんかでもご飯を食べるのをちょっと忘れてしまっていたりすることがある。
だから急にエネルギーが切れて「あっ」と思うのだ。
なんか今日おかしいと思った僕の周囲の人は、可能なら一声「ご飯食べた?」と聞いて欲しい。
まあそう何回もあるわけじゃなくて(今は二ヶ月に一回ぐらいだが)、でもそれの予防と、朝などいろいろやるべきことがたくさんあるときにまで思いつきで行動しているとしんどいので、僕が開発した方法がある。
ちなみに高校時代からこうした試行錯誤は続いていて、朝起きてからの行動を夜リハーサルしてみる、というのはやってて姉に鼻で笑われたものだ。
あるいは、2005年に発表した「K点」というお芝居は「朝起きてから家を出るまで」を姉夫婦を交通事故で亡くした主人公という背景を加えて一人芝居に起こしたものだった。
これもそういうのを創れば、割と楽になるかしら、というアイデアが発端である。
えー、本題に。
開発した方法とは簡単で、それは「かきくけこ」である。
か:顔を洗う。
き:着替える
く:食う
け:権謀術数(今後の予定とか)
こ:個人研究(話聞かないといけないときに思いついちゃって調べたいこととかかんがえたいこととかやっておきたいこととか)
そして、歯磨き、髭剃りと続く「はひふへほ」、そして近年、裁縫、仕事となる「さしすせそ」と続く。
これで「さあ、次に何しよう」と考えることから開放されたのだ。
よくYOU企画のHPやこのブログを観てくれている人は「CDFの創り方(後半に書いてる“あえいおう”です)」を思い出してくれたかもしれない。
あれは結局僕の仕事のやり方で、実は元ネタは昔仕事のパートナーだった人が教えてくれた文章の書き方の応用編である。
ちなみに書き方の方は
か:書きたいことを項目として書き出す。
き:基本事項を押さえる(チラシなら日時・場所とか)
く:苦労して文章を考える
け:系統立てて並べる。
こ:校正する
である。
んー、この創造性の発揮は逆に分かりにくいかな。
僕の好きなマンガ「よつばと!」(あずまきよひこ)の帯の言葉とかは、日常を生きる素晴らしさを端的に現していて、とても好きだ。
2巻「ただ、ここにいるだけのしあわせ」
3巻「どこかで見た、どこにもない場所へ」
4巻「いつかおとなになるこども。と、かつてこどもだったおとな。かわらないまいにち。」
このマンガは日常の中のなんでもない出来事を描写していながら、そこにある感動をきちんと掬い取って見せてくれる。
思いついてしまう僕は、今度の朗読会で読むものを「ちいさいおうち」→「星の王子様」のバラのくだり→「よつばと」1巻の「よつばとおおあめ」に変更しようかと思っている。
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あ、この演劇的朗読会、読むのは嫌だなあという人も「聞き手」だけでも募集しているんでよかったらぜひ!
(参加費は一応不公平なんでもらいますが。あ、定員にはまだ達していないので読み手もぜひご参加ください。当日の飛び入りも歓迎します。)
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あと、今のYOU企画HPのトップの言葉「小さな物語をこそ・・・」っていうのはそういうことです。
ああいう小さな草を見て、種が風に乗って運ばれてきて、コンクリをかいくぐりながら根を張り花を咲かせるというドラマ(物語)があるんだなあって、多分写真を撮った平野さんは思ったのかもしれないし、僕はそう思って写真を見てしまいます。
創造性ってそういうことかなあって。
あ、あと、昨年右手を骨折したときに、左手でうどんを食べられたときにものすごく感動して、創造した神をたたえましたね。
まさしくマラドーナならぬ「神の左手」です。
どんだけ精巧に、巧みにこの手って奴はできてるんだと感動したのです。
すごい!!!!!!!!!って。
あ、僕は進化論者ではなくて、創造論者です。
絶対にこの手が単なる偶然によって(アミノ酸など有機物のスープがかき混ぜられているうちに偶然に出来た、という論)出来たとは思えない。チンパンジーはおはしでうどんを食べられるのだろうか。
食べられたとして、僕のようにここまで感動できるのだろうか。
やはり、絶対に意図があり、設計(デザイン)があり、優れた知能とクリエイティビティーがあったに違いないと思うのです。
芝居に演出家がいるように、絶対にこの手には創り主がいると思うのです。
CTTという試演会の事務局をやっていたので、たくさんの未完成品を見てきました。
そこでやっぱりいいものとそうでないものは分かれるのです。
試演だから、未完成でいいし、試験品でもいいんです。
「どうお客さんにとられてもいい」というナンセンス自体を目的としている作品でもよいのです。
しかし、そこに創り手の意図が無い作品は、やっぱりダメです。
圧倒的に創ろうとしていて、それでも力や時間やその他のものが足りないものっていうのと、
ただ単に、意図も工夫も演出もない作品というのは全然違います。
やろうとしていることがあって、そこからの距離が遠い作品、近い作品というのは存在しますが、やろうという意図が無いものは作品としてやっぱりダメでした。経験則としては。
あー、少々外れました。
でもついでなので、付け加えると偶然っていうものに頼ること、つまり幸運の女神に頼むようなことは僕は嫌です。
先週の記事に書き逃しましたけど、実は乾杯も僕しないんですね。嫌なんです、実は。
それで僕主宰の打ち上げや飲み会などでなんとなく肩透かしを食った人は「ああー」となってくれたかもしれませんけど、
あのグラスを鳴らすっていう儀式は幸運を呼ぶおまじないな訳です。
もちろん創造者である神を信じてるから幸運の女神には頼れないこともありますが、
「奇跡っての自分の力で起こすもの」という考えであり、大好きな本「グッドラック」にあるように雨は全ての人に降り注ぐけれども収穫できるのは、耕し、肥料と水を引く努力をしたもののみである、という考えに賛成の僕には、ちょっとそれはできないんです。
やはり話がかなり飛びましたが、僕にとって創造性とは、日常をいかに感じていくか、ということなんです。
歩くにしても、
足の動きや身体の軸がどこにあるかとか、
空を見ても、
雲の動きや、夕日の見え方、美しいと思うその背後にあるものを感じる、
ということです。
日々の困難や試練や問題をどのように解決できるか、超えていけるか、思考し試行し、意図をもって行動していくことです。
偶然を待つのではなく、幸運の女神を呼ぼうとするのではなく、自分で努力することが創造性なんだな、と思っています。
(あ、だから手相や占いの類も嫌いでして、手相見たがる女の子って結構いますけど、親切でしているのは分かっていて断って申し訳ないと思いながらも固辞しています)
よければ皆さんの日常にあふれている創造性を探してみてください。
見方を変えるだけで随分毎日が創造的に刺激的になりますから。
退屈だなー、とか仕事に追われまくっていて、とか思わずに言わずに、外の風景を見て、どのように見えるのか、なぜその色なのか考えてみるだけで随分と幸せに(少なくとも僕は)なることが出来ます。
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