のんびり歩こうよ 亀さんみたい

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長男の嫁 ①

2023-09-20 17:05:16 | 人間関係

結婚すると女性の多くは「嫁」と呼ばれる。

兄弟が居れば、特に長男の嫁は 特異な存在である気がする。

長男の嫁が産んだ子は 又特異な存在の孫でもあるようだ。

 

長年続いた 日本の家長制度の名残なのでしょう。

少子化、そして結婚しても子供を産まない選択をするようになった昨今では

やや風潮が変わって来てはいるものの、団塊世代の私達は家長制度を当然と考える親の元で育ち

しかし、少子化で長男・長女の結婚で「家」に縛られない自由を満喫する子供達の狭間で

何となく 割の合わない思いをしているような気がする。

 

私もかつては「長男の嫁」であった。

僅か9年の結婚生活で終止符を打つことになったが、今思い出しても苦い胃液がこみ上げる。

 

夫であった人は、幼少期に両親が離婚し、母親と一緒に東北の里・・実家に戻ったようだ。

里には年老いた祖母と、子供に恵まれなかった伯父(長男)夫婦が暮らしていた。

当時は、子持ちの女性が自立できるような環境では無く、彼の母親は伯父夫婦に彼を預け

観光地の旅館に住み込みで働き、月に一度 給料を貰うと 土産を持って実家に行き

息子と合うのが ライフパターンであったようだ。

 

母親は伯父夫婦を「父さん・母さん」と呼ばせていた。

そこには、兄妹の打算が渦巻いていたようだ。

戦争中、長男である伯父は満州に長い事行っていたので、妹である彼の母親らは

両親と、家業の農業・畜産を手伝いに東京を離れ田舎暮らしをしていたが

終戦後、伯父は満州で結ばれた妻を伴い帰って来た。

伯父は、父亡き後 長男であることを主張し、当然の如く不動産等を自分の名義にし、

親と家業を守った妹家族を東京に返したとの事だった。

その時の恨みつらみを抱えていたので、離婚して里に帰った時、

自分の息子に全てを継承させる心つもりで 伯父夫婦と養子縁組をしたのだ。

 

22歳の私は、産みの母から経緯を聞いてはいたが、若すぎたのか?待ち受けている修羅場を

想像することが出来なかった。

 

東北の養父母は新婚夫婦が住めるだけの部屋を建て増し 私を受け入れてくれたが

夫の本心は東北に帰る気持ちなど毛頭なく、産みの母も常に息子の近くで時には同居していた。

結婚式の準備中、産みの母は、結婚式のご祝儀等を出す事はなかったが

自分が親の席でなければ式には出ないとごね始めた。

 

波乱の始まりであったが、どうにか結婚式を終えた。

夫は電子基板を作る町工場を友人と営んでいたが、収入は不安定で生活は苦しかった。

後々 気付いたのだが特別技術を持たない母親のパート収入で生活が出来る訳はなかった。

夫は、母親の住むアパート代や生活費を私の知らぬところで補填していたようだ。

 

私が子を身ごもっても、給料袋を渡してくれることはなく、つつましい生活の中で出産した。

灯油も買えず暖房はコタツだけ、

近所の農家さんで搭の経ったほうれん草や形の悪い芋を頂く事は日常であった。

50kgあった体重が出産後43kgになっていた。

母乳が出ない私に十分なミルクを買うお金は無く、

3カ月にも満たない赤子に味噌汁の出汁で焚いたお粥を与えていた。

 

そんな時期に、東北の養父がお金を送って来るよう再三の催促が来た。

現金を送って来なければ、不動産を売り払って 一文も残さないと度々言って来る。

実母も夫も「脅し」と受け取っていたようだが、 

十数年後養父亡き後 葬儀に帰った元夫が観たものは

山や畑などは見ごとに現金化し食いつぶし、養母はすでにどこかに消えた空屋だけのようだ。 

(その頃 夫の不貞と暴力に見切りをつけ 長男・長女と新たな生活を始めていた)

 

産みの母も、夫であった人も 全て計画が壊れ、当てが外れ

事業も倒産し どん底を生きていると風の噂に聞こえてきた

 

 


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