母は小学校の教諭で、父の実家は豪農と言っても良かったのではないだろうか。
家の周辺に見渡す水田は、みな我が家の財産だったらしい。
村の庄屋が小林という姓で、その家が没落したのか、いつの間にやら
私の実家の屋号は「コバヤシ」と呼ばれるようになっていたらしい。
母の実家は父の実家から距離で約8km、、大人の足で歩けば1時間ちょい。
母は時々実家の母(私の祖母)のもとに妹を負い、兄と私は歩いてついていった。
父の実家は大家族で、母がいないと成り立たないので、必ず夕食の準備もあって泊まることもなく帰宅していた。
母方の祖母はもともとは武家の子女で、祖父は村の村長もやった歌人だったらしい。
私の幼い記憶では、母の兄弟姉妹は全部で7人だったらしい。(幼い時期に妹がなくなっていた。)
祖父が脳卒中で17年間もの間長く寝て亡くなったこともあって、家は貧乏だったようで母の下の弟二人の就学資金を母は隠れて出していたらしい。
祖父母は子供二人を連れて朝鮮に「日本語学校」の校長として戦前に出向していたという。母は朝鮮(48度線の沿線)で出生し、3歳まで
過ごしたという。しかし当然記憶も、なかっただろう。
母の実家には朝鮮時代に仲良くしていた朝鮮人からの贈り物の鶴のはく製があったり、おじさんたちがお盆に戻ってくると、
「タンべカジョナラ」というと、私もそれが朝鮮語だという意識もなく、「煙草」(タンべ)を持って行ったりしていた。
5歳くらいだろうか、私は月夜の明かりで目を覚ますと、母と兄と妹の姿が見えず、祖母と一緒に眠っていた。
置いて行かれたことを知って、私は祖母に気づかれないように母の後を追って父の実家に帰ろうと出発した。
途中その村の橋のあたりは、お墓が立ち並ぶ墓所の近くで怖くて一目散に走って父の実家に向かった。
街灯もない山道をどれくらい怖かっただろうと思うが、それでも家人が寝静まっている家に入り込み、父方の祖母の入る布団にもぐりこんだ。
それからしばらくうとうとしていると、母方の祖母が私が戻っているか心配して訪ねて来るのだった。
寝たふりをしていたが、心の中では申し訳なさでいっぱいだった。
おばあちゃんが嫌いなわけではなく、自分が母のそばにいたかっただけなのだとそう思っていた。
そのことで別段とがめられることもなく済んだが、大きくなってその話は母方の親せきが集まると、
必ず語られることとなった。
祖母が私に「いつもあなたは本当に、かわいそうな子だったね」という言葉を今でも忘れない。
その祖母は94歳で逝去したが、大学から帰省した私は祖母を病院に見舞った。
末期がんで、余命いくばくもない祖母だったが、「よく来たね!」と喜ぶ顔を見て、
会えてよかったと思う自分がいた。