前半の書ききれなかったところ、思い出して書いておきます。
タイガースをやめると決めてから、役者になることも考えて、劇団を受けに行ったりもした。
市川右近さんには、どこかのお店で声をかけられて、びっくり。最初、なにやってるか知らなくて、失礼しました…って。
慶應の方が、さきに合格通知がきたから、早稲田のは見てない。もしかしたら、落ちてたかも。
受験勉強してるときも、ちゃんと8時間は寝ていた。あと、2時間はそれぞれの食事にあてて、残りは勉強に。髪を洗うのが面倒だから、丸坊主にしていた。
(ひゃ~、ピーの丸坊主って想像できない
)
さて、後半始まりました。
ピーの肩書きは「中国音楽研究家、もとドラマー」だって。
「人生を二度生きた男」
ロンググッバイ
どおり、長い別れになった。
柴田さんと約束があった。二度とタイガースには戻らないと言って、お世話になった。
こんど、約束を破ったことになっちゃったけど、まあもう30年以上たってるから。
タイガースでデビューしたころの翌年くらいから、六本木の方に出ていって、川添さんのイタリアレストランに出入りするようになった。サロンのように、いろんな人が来ていた。そこで柴田さんと知り合った。
知的なことに関心をもって、すごく新鮮だった。話もすごく新鮮だった。かつみなんかはファッションの方に興味をもった。
そうして、ますますそれぞれの考えを持つようになった。
子供たちは、父がタイガースだったと知らなかった。18歳になるまで言わなかった。上の子が先に知ったけど、弟にはなにも言わなかったので、ふたりとも18歳になるまで知らなかった。
つれあいは、また芸能界に戻るのじゃないかと心配していたから、いっさい何も見せず、実家でもいっさい隠していた。
つれあいとは、それまでにいろいろすれ違いもあり、離婚して、子どもたちも大きくなったから、もういいかな…と。
ぐっとおさえられていたから、かえってよかったかも。その瞬発力が培われたかもしれない。
ぼくは年をぜんぜん気にしてなかった。55くらいになって、同僚の教師がくたびれてるのを不思議に思ってた。
でも、このエネルギーは母親からもらったものかもしれない。
2008年、中井さんがスタンバイしてくれて、みんなと再会した。最初はわだかまりもあったけど、飲んでみたら、すっかり以前の僕らに戻ってた。ほとんど一瞬で、また戻れたのはすごいと思った。みんなと会ってよかったと思った。
利害関係だけで結び付いた仲間じゃないから。喧嘩も言い合いもするけど、みんな真面目だからぶつかる。だから、元に戻れる。
この歌、岸部一徳、沢田研二が書いた。最初は客観的に聞いていた。
2008年に再会したあと、この曲を聞いて、そういう想いだったのかと。沢田が自由が丘の居酒屋に、僕に会うために来ていたというのも聞いたし、そこまで思ってくれたのかと、ありがたいという想いにかられた。
これにアンサーソングを作った。
それぞれ、道はちがったけど、これから同じ道を歩いていけたらいいなと。
そのあと、学校を退職した。もともと、明治時代の音楽も研究していたけど、彼らと会って、彼らがやりたがっていることを知って、明くる年の2月くらいから、スティックをまた持ちはじめて準備をしはじめた。
最初、かつみがいなかったので、おかしいな~とは思ってた。そのあと、かつみと目黒駅で会ったけど、最初は髪も真っ白でわからなかった。
中井さんとみんなで会って、話はまとまりかけたが、その後、かつみと沢田があまりうまくいってないと聞いていたが、かつみが、やめとくと言ったので、がっかりして、学校もやめていたので、職も探さなくちゃなんて思ってた。
でも、タイガースじゃなくても音楽ができればいいやと、老虎再来という曲を作った。
その間に、中井さんも亡くなられた。
本も出版して、自分の道をさぐっていこうと思ってたら、かつみははいらないけど、いっしょにやることになって、ほんとに楽しかった。
みなさんに評価してもらって、うりれしく思う。
38回のステージ、本当に楽しかった。おさえていたからこそ、爆発できたので、元妻に感謝している。
今後は、
京劇と歌舞伎、日本舞踊のコラボというような、渾然一体とした融合を考えている。
僕しかできないことをやっていきたいし、それが日中友好の橋渡しになればいいと思っている。
タイガースのメンバーとの活動もまたできれば。
シェィシェィ。
老虎再来
トークライブでも言ってたけど、結婚していた当時は、漬け物石でおさえつけられてたみたいだった…って
これ、すごい言い方