またまた、見ながら書いてますので、誤字脱字お許しを。ピー、登場
★あの再会のときの写真が。
国際フォーラムの写真も。
★タイガース以後は、あっという間。なにしてたのかな。
あの人気は多少の確信はあったけど、あそこまでとは思ってなかった。
★こういうバンドはいないだろうと思ってた。ほかのバンドは、年齢差もあったし、バンドマスターが言ったら、従わなくてはいけないところがあった。
僕たちは対等の立場でやってきたから、危ないところもあったけど、ぎりぎりの状態でやってきて、緊張感があった。
社会現象については、いろいろ言われたけど、若者は何かに向かっていくもの。それを乗り越えようとしたから、うまくいったかな。
アマチュアバンドではいって、仕事し始めたら、なかばプロのつもりでやってた。少しやってダメならやめようと思ってた。
僕は一度やめたけど、沢田や岸部はずっとやっていて、そのおかげで今、こうしていられるから感謝してます。
高校卒業を控えて、やめたいと言ったら、教師にちょっと待ったら、と言われた。そのときは夜間の大学に行こうと思ってたけど、一度そう思ったら、やめられないから。
親父にはあきらめられてた。
いかに食べていくかはあまり気にしてなかった。
やるしかないから、京大の食堂でバイトをして、そのあといろいろバイトをして、岸部のお兄さんの結婚式で歌ったりしていたが、音楽で食べていくのは大変だと思った。
初めて、沢田を見た感じは、僕たちとは異分子の感じがした。当時はアイビーが流行ってたけど、靴も僕らとちがって、先が尖ったのを履いてたし、でも、見かけもいいし、寡黙で、悪くないと。
インストルメンタルの世界と全く違う。やるからには、頂点はきわめたいと思ってた。
タイガースの最初はコーラスや踊りの練習もしたけど、
売れたのは速かったから、これでやっと定収入が得られると思った。
会社から与えられた曲だったから、僕たちは年々解離していった。
今になると、これは歌謡曲でもない、演歌でもない、独特のものと思う。でも、できなかったから、僕はやめちゃった。
会社に入るまでは好きにやっていた。それまでは自分がマネージメントやっていたけど、それはマネージャーがつくから必要なくなる。
会社に入ってからは、作られたイメージがあって、無理していたところもあった。
かつみが脱退して、タイガースにとっても、僕にとっても、すごく大きなことだった。僕たちは危ういところで成り立っていることを再認識した。
気持ちが乗らなくなってきて、補っても補いきれないものがあって、気持ちの中にひび割れみたいなものが起こった。
やめると決めても、なにをするかわからずにいたが、柴田錬三郎さんと出会う。
キャンティに行って、ちがう世界に会って、すごく新鮮だった。悪く言えば、かぶれてしまった。
そこで柴田さんと会って、勉強しようと思った。事務所に伝えたが、まだ具体的な計画はなかった。
お金もなかったので、もう一度頭をさげて、もう一年やることにした。
タイガース解散の日、寂しかった。ひとつの区切りがこれでついたと思った。
一年間という期限を決めて、受験勉強に。
丸坊主にして、時間を節約した。
逆境にあっても性格的にあまりくさらない。
合格して、一度に春になった気がした。柴田さんと、芸能関係の付き合いをいっさい断つという約束をした。
大学に入ったら、知的な刺激がすごかったから、もっと勉強しなくてはいけなかった。僕は積み上げてきたものは何もなくて、話も合わないから。慶應は知的レベルも高いから、でもそれはそれで勉強になった。
高校の教師になった。まわりで、生徒が沢田研二とか、黒板で書いたりしていたが、それがどうしたのと無視してた。でも、それで僕に関心をもってくれるわけだから、それのエネルギーを使おうと思った。
高校の文集に、なにをやるにも一流であれと書いた。やるなら、一番になってほしいと。
中井さんが訪ねてきた。
日吉祭にきてくれた。中井さんに、申し訳なかったと言われた。
当時は、
中井さんは会社の人間だったから、どうせ、何を言っても無駄だろうと、あまり信用してなかった。でも、謝られて素直な気持ちになれた。沢田が自由が丘の居酒屋に出入りしてることを聞かされた。何気なさを装って会おうとしていたことを知った。
これに心うたれて、再会を決めた。
最初はみんなわだかまりがあったが、話しているうちにもとの仲間にすぐ戻れた。
このとき、もう一度やろうと言われた。でも、ずっと音楽の世界から離れていて、このときはまだ現実的ではなかった。
しばらくして、沢田がロンググッドバイを歌うのを聴いた。
それを見たとき、言いたいことがわかって、じわっときた。
教師をやめた。
やめると決めて、中途半端なことはできない。ところが、かつみがやらないことになって、一度に白紙になった。しかたないと思ってたが、沢田のライブでやることになり、ドラムの猛練習を始めた。
メンバーとは全然変わってなくて、初めて音合わせをしたときも、音は全然変わってなかった。沢田にもピーのドラムがいいんだと言われて、うれしかった。
だから、いっぺんに戻れた。初日は緊張はしたけど、うまくやろうとか考えないで、自分の今の姿を見せようとしたから、よかった。
お客さんの反応をエネルギーにして、楽しかった。やめててよかったと。
岸部は役者の世界、僕は教師の世界があったから、それが役にたっている。
だから、今も新しく見える、かつてやったことはみんな無駄はないと思った。
武道館にかつみがいないことだけが心残りだった。
たぶん、近い将来、実現するかな。沢田はかつみのあの高音の声を聞きたい。
やっぱり、僕らのハーモニーは世界に通用すると言っても過言ではないと思ってる。
写真もたくさん出てきました。
また、録画したのを見ながら整理しますが、いったん送ります
★あの再会のときの写真が。
国際フォーラムの写真も。
★タイガース以後は、あっという間。なにしてたのかな。
あの人気は多少の確信はあったけど、あそこまでとは思ってなかった。
★こういうバンドはいないだろうと思ってた。ほかのバンドは、年齢差もあったし、バンドマスターが言ったら、従わなくてはいけないところがあった。
僕たちは対等の立場でやってきたから、危ないところもあったけど、ぎりぎりの状態でやってきて、緊張感があった。
社会現象については、いろいろ言われたけど、若者は何かに向かっていくもの。それを乗り越えようとしたから、うまくいったかな。
アマチュアバンドではいって、仕事し始めたら、なかばプロのつもりでやってた。少しやってダメならやめようと思ってた。
僕は一度やめたけど、沢田や岸部はずっとやっていて、そのおかげで今、こうしていられるから感謝してます。
高校卒業を控えて、やめたいと言ったら、教師にちょっと待ったら、と言われた。そのときは夜間の大学に行こうと思ってたけど、一度そう思ったら、やめられないから。
親父にはあきらめられてた。
いかに食べていくかはあまり気にしてなかった。
やるしかないから、京大の食堂でバイトをして、そのあといろいろバイトをして、岸部のお兄さんの結婚式で歌ったりしていたが、音楽で食べていくのは大変だと思った。
初めて、沢田を見た感じは、僕たちとは異分子の感じがした。当時はアイビーが流行ってたけど、靴も僕らとちがって、先が尖ったのを履いてたし、でも、見かけもいいし、寡黙で、悪くないと。
インストルメンタルの世界と全く違う。やるからには、頂点はきわめたいと思ってた。
タイガースの最初はコーラスや踊りの練習もしたけど、
売れたのは速かったから、これでやっと定収入が得られると思った。
会社から与えられた曲だったから、僕たちは年々解離していった。
今になると、これは歌謡曲でもない、演歌でもない、独特のものと思う。でも、できなかったから、僕はやめちゃった。
会社に入るまでは好きにやっていた。それまでは自分がマネージメントやっていたけど、それはマネージャーがつくから必要なくなる。
会社に入ってからは、作られたイメージがあって、無理していたところもあった。
かつみが脱退して、タイガースにとっても、僕にとっても、すごく大きなことだった。僕たちは危ういところで成り立っていることを再認識した。
気持ちが乗らなくなってきて、補っても補いきれないものがあって、気持ちの中にひび割れみたいなものが起こった。
やめると決めても、なにをするかわからずにいたが、柴田錬三郎さんと出会う。
キャンティに行って、ちがう世界に会って、すごく新鮮だった。悪く言えば、かぶれてしまった。
そこで柴田さんと会って、勉強しようと思った。事務所に伝えたが、まだ具体的な計画はなかった。
お金もなかったので、もう一度頭をさげて、もう一年やることにした。
タイガース解散の日、寂しかった。ひとつの区切りがこれでついたと思った。
一年間という期限を決めて、受験勉強に。
丸坊主にして、時間を節約した。
逆境にあっても性格的にあまりくさらない。
合格して、一度に春になった気がした。柴田さんと、芸能関係の付き合いをいっさい断つという約束をした。
大学に入ったら、知的な刺激がすごかったから、もっと勉強しなくてはいけなかった。僕は積み上げてきたものは何もなくて、話も合わないから。慶應は知的レベルも高いから、でもそれはそれで勉強になった。
高校の教師になった。まわりで、生徒が沢田研二とか、黒板で書いたりしていたが、それがどうしたのと無視してた。でも、それで僕に関心をもってくれるわけだから、それのエネルギーを使おうと思った。
高校の文集に、なにをやるにも一流であれと書いた。やるなら、一番になってほしいと。
中井さんが訪ねてきた。
日吉祭にきてくれた。中井さんに、申し訳なかったと言われた。
当時は、
中井さんは会社の人間だったから、どうせ、何を言っても無駄だろうと、あまり信用してなかった。でも、謝られて素直な気持ちになれた。沢田が自由が丘の居酒屋に出入りしてることを聞かされた。何気なさを装って会おうとしていたことを知った。
これに心うたれて、再会を決めた。
最初はみんなわだかまりがあったが、話しているうちにもとの仲間にすぐ戻れた。
このとき、もう一度やろうと言われた。でも、ずっと音楽の世界から離れていて、このときはまだ現実的ではなかった。
しばらくして、沢田がロンググッドバイを歌うのを聴いた。
それを見たとき、言いたいことがわかって、じわっときた。
教師をやめた。
やめると決めて、中途半端なことはできない。ところが、かつみがやらないことになって、一度に白紙になった。しかたないと思ってたが、沢田のライブでやることになり、ドラムの猛練習を始めた。
メンバーとは全然変わってなくて、初めて音合わせをしたときも、音は全然変わってなかった。沢田にもピーのドラムがいいんだと言われて、うれしかった。
だから、いっぺんに戻れた。初日は緊張はしたけど、うまくやろうとか考えないで、自分の今の姿を見せようとしたから、よかった。
お客さんの反応をエネルギーにして、楽しかった。やめててよかったと。
岸部は役者の世界、僕は教師の世界があったから、それが役にたっている。
だから、今も新しく見える、かつてやったことはみんな無駄はないと思った。
武道館にかつみがいないことだけが心残りだった。
たぶん、近い将来、実現するかな。沢田はかつみのあの高音の声を聞きたい。
やっぱり、僕らのハーモニーは世界に通用すると言っても過言ではないと思ってる。
写真もたくさん出てきました。
また、録画したのを見ながら整理しますが、いったん送ります