ニュアンスとしては「最も神に近い知識を持つ者」と云った感じで、それを目指すのが儒教と言えます。
これは「学問」を「信仰」の域にまで高める思想で、科学と宗教の統合を目指す思想とも言えます。
フランスの名家出身で「炎の紋章」を引き継ぐアゼルもそんな思想を持ち、彼は生涯を学問と真理の探究に捧げます。
そんなアゼルは秀祥がナヴァホの地で起こした「奇跡」を目の当たりにし、それがどうして起こり得たのかを探究しました。
しかし、1981年当時ではまだマイクロバイオームや超ミネラル、メッセージ物質や神経免疫学などへの理解が進んでいなかったので、彼の探究は当初、もっぱら秀祥のアピアランス(実在)に向けられます。
それは「奇跡」の秘密を彼女の経歴から探ろうとするモノで、アゼルは詳しく秀祥の生い立ちから現在までを聞き出します。
そうして彼は優樹(ユーシュー)のサーガ(戦いの叙事詩)と、そこの男達がみんな「絶滅収容所」に入れられ帰らなかったコトを知り、秀祥がなぜ深い悲しみを抱き続けているのかを理解します...
この「絶滅収容所」についてはアレクサンダー-ソルジェニーツィンが「収容所群島」で実に詳しく語っていますが、そのシステムを中国共産党が如何に取り入れて運用したかは、「雪の下の炎」という本に書かれています。
スターリンが大粛清を行う為に作ったこのシステムでは、5%の囚人が選別されて生き残りましたが、それには「洗脳教育」を熱心に受け入れて、他の囚人を密告するなどの「魂を売る行為」が要求されました。
チベットではそうした「裏切り行為の強要」はあまり功を奏さず、中共はチベット人の団結心を砕くコトは出来ませんでしたが、その代わりに「絶滅収容所」は文字通りに全ての囚人を餓死へと追い込みました...
わたしの物語では、優樹の男達が最終的に全員餓死させられたのは1977年(毛沢東の死の翌年)とし、この「断種政策」の報告がチベット亡命政府に届いたのはその何年か後になります。
それは主に優樹から亡命したチベット人女性に依りましたが、優樹の絶滅収容所ではそこの職員もチベット人に感化されてダラムサラーに亡命したので、そこで何が起ったのかが詳しく報告されました。
それにより秀祥は、幼馴染み達と師である法王-行善が、如何に見事な最期を遂げたかを知ります。
それは彼女の心に消せない悲しみを植え付けると共に、決して消えるコトのない「炎」を灯します。
この「心の炎」は、成仏した行善(しんしゃん)の魂が秀祥の心と一つに成ったコトでもたらされ、その「炎」はアゼルの心にも伝播します。
これによりアゼルは作家として歩み出すのに足る「炎」を手にし、それを操るすべを生涯をかけて磨いて行けました。
そんなアゼルは「学聖」としての道を晩年まで歩み続け、秀祥の「新しい福音書」に寄せた章では、これまでに誰も書き得なかった程の見事な「炎」を描き出します。
ここで最後に締めとして、その「学聖の文章」の冒頭を描こうかと思います。
それには久しぶりに仏教の「十如是」を借用しようと思い、これはブッタが用いた「方便」で、如是に続いて「相、性、体、力、作、因、縁、果、報、本末究境」と唱えられます。
−− わたしは生涯を懸けて「奇跡」について探究して来ましたが、それは一言で表すならば「愛」と言えます。
その「愛」を体現した秀祥には、周り人々の心に「炎」を灯す力があり、それは彼女の言葉と行いに表れていました。
わたしは彼女のその特別な言行の因縁を探って、そこに多くのチベット人達の魂が宿っているコトを知りました。
それは秀祥がトゥルク(転生活仏)として多くの魂を導いて来た因縁に依り、その果報を彼女は善く理解しておりました。
それはわたしの心にも決して消えるコトのない「炎」を灯してくれ、全ての人々にそれを伝播させる使命を与えてくれました... −−